大相撲部屋

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大相撲部屋 へのコメント 906件 』

  • 投稿者:匿名

    チケットとれない。
    みんな外れる。必勝法は?ないですかね。
    ネットでは高いし、あれが横行するなんて、ア〜アって思います。

    5+
  • 投稿者:匿名

    チケットは息子に頼んでるけど取れない!
    初日に何とか取りたいけど…
    ばぁちゃんも気にしてるから、何とか取りたいけどね。
    年寄りは優先とかしてほしいね!

    7+
  • 投稿者:KON

    猪も怖いけど、気候変動で 餌が少ないのと そもそも山を切り開いて人間が住み入ってきたのだから、ある程度は彼らの生きる権利を尊重してあげたい。
    でも実被害が自分や家族に出てくるなら、話は違ってきますね。
    それよりも、
     高尾の姐さん     超高齢のお母さまと観覧を計画された初場所のチケットは、入手できたのでしょうか?

    12+
  • 投稿者:匿名

    八王子に猪出現で、テレビガメラなど来て大変な騒ぎとか!
    山に登ればタヌキもいるけど、猪は突進してくるから怖い!
    早く捕まえて、山に帰してほしいけど…

    4+
  • 投稿者:KON

    温故知新・大相撲カレンダー 12月10日
    1877明治10年12月10日
    寒い12月、東京は本所回向院境内の、屋根もない屋外の大相撲場で行なわれた本場所の千秋楽。
    (建物の中で本場所が行なわれるようになったのは、この32年後に旧両國國技舘が完成してから。)
    この年、年間二場所という伝統を崩し、江戸の大相撲史上初めて年間3場所の本場所が、この場所の千秋楽、関脇の初代梅ヶ谷藤太郎が9戦全勝で優勝(相当)の成績を挙げました。
     この年の3場所とも初代梅ケ谷が、8勝1休 ・ 8勝1分1休 ・ 9戦全勝ですべて優勝(相当)の成績で、この場所の9勝目が梅ヶ谷の大連勝記録58連勝の27連勝目でした。

    この場所の番付では、境川と朝日嶽が東西の大関。 小結には前場所まで大関だった雷電震右衛門が、病気で体調を崩し全休が続き、一気に張出小結へ陥落したことで、雷電の名を返上して「阿武松」へ四股名を改名し、この場所も全休している。
    阿武松は、兜山を名乗っていた平幕の頃(前頭2枚目)から勝ち続け始め、雷電為右衛門と並ぶ、破竹の43連勝をしていた際に、それまでの「兜山」から「雷電震右衛門」を名乗ることになり、雷電為右衛門をお抱えとしていた島根県は松江藩に出向いて御伺いを立てて、認められたのですが、その際、『雷電の名に恥じる成績となった時には、名前を返上する』という約束をしていて、雷電襲名から4年8ヶ月で、この約束を守って雷電の名を返上、阿武松へ改名したのでした。   さきの力道山とは反対の“飲む・打つ・買う”を一切やらない真面目人間であり、義を重んじる律儀な男ではあったが、こうと決めたら梃子でも引かない気性で、興行収入や東京市(現在の23区部分)などからの補助金・寄付など「相撲会所」(=現在の日本相撲協会)の収入の多くを牛耳って、現役力士たちにひもじい思いをさせていた親方衆に対し、「年寄不要論」を公言していた為、かなり疎まれていて、由緒ある阿武松という「年寄名跡」は認められなかったそうです。

    なお、前年(明治9年)は4月の1度のみ本場所開催、また翌年(明治11年)も5月のみの1場所開催でしたが、明治12年からは、年間ふた場所に戻され、大正の末まで(昭和の初めにいったん年4場所となるまで)の46年間 年2場所制が続いたのでした。

    13+
  • 投稿者:KON

    温故知新・大相撲カレンダー12月9日
    1877 文明開化の波が及び、本場所の初日見物が初めて女性客に許されました。
    それまでは、二日目以降千秋楽までは女性も観覧を許されていて、もっと以前は、幕下力士の取組が中心で強豪が五人掛け相撲などの花相撲を行なう千秋楽のみ女性の入場が認められていたのでした。

    相撲川柳に 《女には 見せぬ諸国の いい男》というのが残っていますが、
    大の男がふんどし一つのほぼ裸の姿で、頭とあまたで勢いよくぶつかる命がけの勝負、女なんぞが見てよい道理がなかろう という、男中心社会というか男尊女卑というか女性差別というか、なにせ150年前までの話ですから。

    明治維新、文明開化、近代化、欧米化という激動の時代変化の渦に巻き込まれ、旧態依然の象徴たる大相撲は、内紛である「高砂改正組事件」もあって、不人気のピーク。
    1872明治5年。あまりの不人気に苦しんだ当時の相撲協会が、打開策を元土佐藩主の山内容堂に相談したところ「婦人をおろそかにしてはいけない」と助言され、女性の観戦を解禁したとされる。実際、明治五年太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」により、神社仏閣の境内への女性の出入りが解禁されました。
    まず手始めに1872明治5年に本場所の2日目以降が、そしてその5年後の1877明治10年には初日も含めて全面解禁、現在のようになったのです。
    たしかに、江戸の相撲錦絵をよく見ると、客席にいる観客はみな男性ですね。

    そもそも、女性の出入り禁止というこの問題は、江戸の相撲のルーツに遡ります。
    大相撲の歴史のなかで、
    紀元前23年=垂仁天皇7年7月7日、垂仁天皇の御前で、大和の国(奈良)の當麻蹴速と相対した出雲の野見宿禰が勝利したのが相撲のルーツとされ、時を経て、毎年七月七日に天皇の御前で地方の力自慢が腕を競うようになった「相撲節(すまひせち)」。
    また、『日本書紀』には 「相撲を最初に取ったのは女性」とあります。これは 西暦469年=雄略天皇13年、 現在テレビで人気のドクターX:大門未知子の如く「絶対にミスをしない!」と豪語していた木工の名人の手元を狂わせるため、  雄略天皇が女官たち=采女(うねめ)の着物をすべて脱がせ、彼女をふんどし一丁の姿にして、木工名人の作業しているすぐそばで相撲を取らせた為、女体に目が行き集中できなくなってしまった名人が手元を狂わせ、ついに失敗をしたという話で、相撲協会が “協会の先人や天皇家の祖先の品位が夥しく落ちるような こんな説がまかり通るのを忌み嫌い、『雄略天皇が女官たちに相撲を取らせたのは余興の最たるものであり、その200年近く後の 西暦642年=皇極天皇元年に、朝廷が開催した「健児(こんでい)相撲=(兵士による相撲)」こそ、「すまひせち」の前身となる「公の相撲大会」の起源である』 としている。

    奈良から平安に時代が進み、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれ、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼として行なう「神事相撲」が全国に広まった。
    平安末期から鎌倉時代には、武士たちの組み打ちの鍛錬を兼ねた「武家相撲」が主流となっていったが、他方、民衆が行なった「人垣の輪の中で行なう土地相撲・草相撲」も全国に広がって庶民に浸透していったそうです。
     さらに源頼朝や織田信長、豊臣秀吉ら武将たちの多くが相撲を気に入った為、上様の御前で勝負する「上覧相撲」となって、人垣から丸い土俵が出来た。
    江戸時代になった太平の世になってくると、武家相撲も必要がなくなり、相撲を生業(なりわい)とする者が現れ、一般庶民に相撲を見せてその観戦料を寺社仏閣の補修費用などにあてた「勧進相撲」に移ります。そこで
    もっぱら女人禁制の神社仏閣の境内で行なわれていた「勧進大相撲」は、必然的に、男だけの、それもほぼ裸の男性力士同士の厳しい実力勝負として、土俵上だけでなく観客席含めて全てが「女人禁制」での興行と相成りました。
    この、“神社仏閣が女人禁制だった” ということから「勧進相撲」が女人禁制となり、両国回向院や富岡八幡宮で行なわれていた江戸の本場所が女人禁制となるのは必然だったのですね。  そういった歴史が永く続いて、男だけの世界だったのが、冒頭にあるように、明治10年に本場所がすべて女性の入場を認めるようになったということです。

    14+
  • 投稿者:KON

    温故知新・大相撲カレンダー12月8日―2
    1963昭和38年12月8日 元二所ノ関部屋の力士で「プロレスの英雄」力道山が、赤坂の高級クラブで、暴力団員に刺される事件が起きました。

    12月8日23時半ごろ、赤坂のクラブ「ニューラテンクオーター」の店内の通路で、力道山が女性と話をしていたところ、通路を通りがかった住吉連合系暴力団=大日本興行の組員、村田勝志(24歳)が力道の足を踵で踏み、『こら、あんちゃん、足踏んだぞ』と呼び止めたが、「踏んだ覚えはない!」と否定する村田と喧嘩になった。 店内で、お店の綺麗どころをすべて席に集めてしまい、大声で景気のいい話をして大笑いを続ける朝鮮人力道山が気に入らなくて仕方なかったヤクザの村田が因縁をつけたのだそうです。
    この時、村田勝志が懐中に隠していた登山ナイフを抜き出そうとしたのを見た力道山は、刃物を見たために和解を要求したのだが、『おい、もうこのぐらいにしてやるよ、さぁ行け!』という 上から目線のその言い方に憤慨した村田勝志はこれを拒否。 和解が無理だと判断した力道山は、先に村田勝志を殴り飛ばして倒し、村田に馬乗りになって続けざまに殴りつけました。 手抜きなしのプロレスラーの拳の嵐に、村田勝志は「殺される」と思い、登山ナイフで力道山の左下腹部を刺しました。 この時ナイフの刃は根元まで刺さったが、出血は衣服の上に染み出ていなかったそうです。
    この夜はそれ以上特に何もなく力道山は応急手当を受けて帰宅。
     力道山と村田勝志はその後、村田勝志の組の長である小林楠扶がリキアパート内の力道山宅を訪問して謝罪したことで和解しました。
    しかし2日目になって力道山は症状が悪化した為、自分と親しい医者のいる山王病院に入院し30針縫う手術を受けました。
     その後、事件発生から7日後に力道山は腹膜炎による腸閉塞を理由に午後2時30分より再手術を受け、手術自体は成功しましたが、力道山(朝鮮名:金信洛)はその約6 時間後の午後9時過ぎに、穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎で死亡してしまいました。
     享年39歳 (41歳という説もあるようですが・・・)
    死因は、実は、腹膜炎自体はほぼ完治に近い状態まで回復していたが、力士上がりのプロレスラーである力道山が、食欲が非常に旺盛で、治療期間であるにもかかわらず空腹に耐えきれず、付き人に行きつけの寿司屋に寿司と酒を注文して病室へ持って来させ、それを食べていたことが原因だとも言われているし、
    また、別の説では、手術の際に麻酔を担当した外科医が、筋弛緩剤注射した後に気管内チューブの気管挿管を失敗し窒息したという「医療事」が死因だとも言われています。

    プロレスの力道山は、皆さんよく御承知でしょうから、
    力士時代の力道山のことを記すと、
    二所ノ関部屋に入門し、1940昭和15年5月場所、15歳で初土俵。二所の荒稽古に揉まれ、三段目優勝・幕下優勝を1度ずつ経験して、終戦後の1946昭和21年11月場所には早くも入幕し、入幕2場所目の1947年6月場所に前頭8枚目で9勝1敗の星をあげ、横綱羽黒山、大関前田山、同東富士ら3人と相星となり、この場所から新しく設けられた優勝決定戦に出場した(優勝は羽黒山)。・・・それまでは相星の場合は番付上位者が自動的に優勝となっていた。
     1948年5月場所では横綱照國とこの場所優勝した大関東冨士を破り、さらに横綱前田山には取り直しの末、疲れ切った前田山の棄権によって不戦勝となって殊勲賞を受賞。
    当時、弟弟子だった若乃花をしごきにしごいて鍛えたものだが、ある時、あまりのしごきに、稽古場で疲労困憊、起き上がれなくなった若乃花を竹刀で叩き続ける力道山。「このままでは殺される」と恐怖を覚え、いきなり力道の脛に噛み付いた。『痛えな、の野郎』と力道が持っていた竹刀で容赦なく若乃花を叩き続けたが 若乃花はいっこうに噛んでいる口を離さず、ついには皮膚ごと喰いちぎってしまい、大声で騒ぐ力道を振り返ることなく走り出し、まわしをつけたまま部屋を飛び出して、兄弟子たちが追いかけてくる声が聞こえた若乃花はとうとう隅田川へ飛び込んだという。
    プロレスで力道が黒のロングタイツを履く姿を通したのには、この噛み千切られた傷が原因していた。
    後年、プロレスで大成功を収めた力道山は、蔵前国技館の本場所千秋楽を舛席で観戦、当時、協会でも用意のなかったカラーフィルムでの8mm映写機で本場所を録っていた。(そのフィルムは、現在、相撲協会に保存されている)
    また、二所ノ関部屋の千秋楽打ち上げパーティに乗り込み、横綱若乃花と酒を酌み交わしながら旧交を深めていたが、『おい、横綱、あんたに噛まれた傷、見せてやろうか?まだ痛いぞ』と笑いながら、ズボンの裾をまくろうとしたので、若乃花が「勘弁してくれ」と平謝り。周囲は大爆笑となったそうです。(その映像も残っています)

    さて、力道山は、新入幕から6場所連続で勝ち越してついに関脇昇進。 しかし、新関脇の場所で力道山の幕内生活10場所で唯一の負け越し。それも3勝12敗と惨敗。しかし、番付は前頭2枚目までしか落ちなかった幸運もあり、翌場所に8勝7敗と勝ち越して小結へ返り咲く。そこで10勝5敗、関脇に戻って8勝7敗。翌場所、1950年9月場所前に突然、自ら髷を切り廃業してしまった。
    『民族の壁に阻まれて大関に昇進できなかったため廃業を決意した』 という説が良く語られるが、これは、プロレスを旗揚げしようとする力道を思った周囲が触れてまわったものらしく、 実際、関脇で勝ち越すのが精いっぱいであり、大関に昇進できるような星は残していない。前述のように関脇で3勝12敗なら前頭四枚目~六枚目まで落とされるのが妥当なところだったのに二枚目で留め置かれている。
    とにかく負けず嫌いで自己主張の強く目立ちたがりの力道山。 さらに、酒が入ると、酒量も半端なく、あたりかまわず暴れることで、 周囲からは、相当鬱陶しく思われていた。
    師匠の二所ノ関親方との間にはこのような素行への叱責を受ける毎日で、さらに、インディアン・フォア80(1265cc)という超高級大型バイクを乗り回し、それで本場所に入ってくる破天荒ぶり。 要するに、酒だ 車だ 女だ と放蕩極まりないお金の使い方をしていた為、借金だらけ。  金銭問題を含むトラブルを多く起こしていて、借金取立てのヤクザが 部屋はおろか国技館にまで押しかけてきて借金返済を迫ってきていたそうで、これが引退の引き金と考えるのが力士引退の理由として妥当なところだろうと言えますね。
    力士として
    通算成績:135勝82敗15休 勝率.622、  幕内成績:75勝54敗15休 勝率.581
    現役在位:23場所、 幕内在位:11場所、 三役在位:6場所 (関脇3場所、小結3場所)
    三賞:1回 殊勲賞:1回 (1948年5月場所)、 金星:2個(東冨士1個、照國1個)

    13+
  • 投稿者:匿名

    得意技の(笑)どの投げ技が好きかの質問はないのか??

    2+
  • 投稿者:SAI

    図書館で3日の火曜日の毎日新聞を読みました
    魁皇の必殺技・右の上手投げの説明や
    朝乃山の将来性など相撲特集が面白いです♪

    5+
  • 投稿者:KON

    温故知新・大相撲カレンダー 12月8日
    1996平成8年の今日、第47代横綱・柏戸剛が亡くなりました。58歳でした。
    度重なる大怪我からの復活を遂げたがそのたびに稽古量が足りないのに体重を落とさないようにと、米を大量に食べたことが内臓を蝕んでいき、重度の糖尿病からの人工透析、腎臓悪化という定番コースに嵌ってしまい58歳にして帰らぬ人となりました。
    当時、横綱在位記録が(同時昇進の大鵬と並び)歴代最長の47場所という記録を打ちたてた。
    柏戸より横綱在位が長くて、与金星が少ないのは大鵬、千代の富士、白鵬の三人だけ。
    また、横綱昇進時、22歳9ヶ月での横綱昇進で、照國萬藏の持つ歴代最年少記録を大鵬幸喜と共に更新。
    引退後、伊勢ノ海部屋は継がずに、鏡山部屋を起こした。
    現役時代の成績では大鵬に大きく遅れを取ったが、親方業では、巨砲を育てた大鵬部屋に対して、多賀竜を部屋頭とした鏡山部屋、 師匠として弟子の育成を競い、そしてついに多賀竜が幕内優勝し、部屋で待つ鏡山親方に天皇優勝賜杯を持ち帰った。またしても柏戸は人目もはばからず涙をいっぱい目に溜めて喜んだ。
    大鵬の著書『巨人・大鵬・卵焼き』にて、「親方としては、柏戸さんに負けた」と大鵬自身潔く負けを認めて、そう書いている。

    そもそも柏戸とは
    江戸時代から名門の相撲部屋だった伊勢ノ海部屋にて受け継がれてきた四股名。(3代)柏戸・宗五郎、(4代)柏戸・利助、(10代)柏戸・秀剛、そして(11代)柏戸・剛
    柏戸剛の師匠でもある10代柏戸と同様、剛も日本相撲協会葬が執り行なわれた。

    では、何故?柏戸か?というと、
    「柏戸」は 初代柏戸村右衛門が始まり。  1738元文3年に武蔵国柏戸村(=現在の埼玉県加須市・旧北川辺町)で生まれた出井清次郎が、出生地の名を取って「柏戸」を四股名にした。 で、相撲界にて大活躍、弟子も孫弟子も幕内や大関へ上がって活躍して「柏戸」の名を継承していきました。) 
    今でも現地の橋の欄干にはその名残りを見ることが出来ます。

    13+
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