大相撲部屋

速報はこちらで
http://www.sumo.or.jp/

※コメントを投稿する際は「コメントのルール」を一読ください。
※誹謗中傷、なりすまし、相撲に直接関係ないコメントは「NGコメント」、以上の行為を繰り返すと「NGユーザー」の対象となります。

※コメントの確認・サイト掲載時間は9時~23時の間のみです。またコメント反映までは10分から1時間程度を目安としてください。
※フィーチャーフォン(ガラケー)の投稿機能に関しましては、動作を保証するものではありませんのでご了承ください。

51+
externallinkコメント一覧

大相撲部屋 へのコメント 1,635件 』

  • 投稿者:KON

    北の富士さん 会心の一番 ( 九

    「稽古嫌い」の汚名返上

    玉乃島(のちの玉の海)との初めての優勝決定戦で勝利!

    そして、晴れて横綱へ。

    前年(昭和44年)の九州場所後の冬巡業において、冬の九州としては異例の悪天候と寒波に見舞われ、行く先々での巡業場所で、力士たちが寒がって、肘や足首・膝が痛いだの、風邪をひいただの理由をつけて土俵に上がっての稽古をせず、浴衣を羽織ってお客さんと談笑きてばかり。
    けっして安くないチケットを買って巡業場所を観に来場したお客様の期待を裏切り続け、勧進元が冷や汗をかく中、大関北の富士ただひとりが皆勤して、行く先々の巡業での土俵に立ち続けた。
    左肘や足首とあちこち故障が癒えず満身創痍ながら、“ 巡業の華 ” となる 横綱土俵入り を見せるべく、冬巡業に同行した大鵬をして
    『 あれが本当にあの北の富士だろうか? と目を疑うようだった。ワシも大関から横綱への頃には、人後に落ちない稽古をした自負はあるが、今の北の富士も稽古に凄く熱が入っていた。今度の巡業で北の富士の稽古は本物だ と感じさせられた。 』と言わしめたのでした。
    一年半後に大鵬が引退したのも、
    若きプリンス貴ノ花の成長を、じかに肌で感じたってことも要因でしょうが、同郷の後輩でもある北の富士に、心技体の“心”が伴ってきたことに安堵したのも要素だと思います。
    三日坊主かと思われたが、年末年始のテレビ番組出演要請をすべて断り、稽古に精を出し続けたのでした。

    そして迎えた
    昭和45年一月初場所千秋楽

    大鵬が左肘と右膝を痛めて休場したこの場所
    で北の富士は、六日目に福の花の右張り手で脳しんとうを起こして土俵の真ん中に沈んだ以外は、危なげなく順調に勝ち進み、千秋楽を迎えて13勝1敗、ライバル玉乃島は、前乃山と巧者初代栃東に屈して2敗。
    ここまで、北・玉の幕内での対戦成績は、初対戦の昭和39年夏場所からの34場所で、32戦の対戦があり、23場所連続の対戦なのですが、16勝 対 16勝 とまったくの五分。

    千秋楽の結びの一番、
    立ち合いから突っ張り合ったが、やはり北の富士得意の左四つとなったが上手まわしに手が届かない。玉乃島が先に動いて右上手出し投げをみせるがこれを堪え土俵中央へ寄り返した北の富士。さらに上手捻りをみせた玉乃島でしたが決め手に欠ける。
    ひと息おいてまわしを引きつけた玉乃島が十八番の吊りをみせる。上手が取れず形勢不利な北の富士が下手まわし一本でこれを耐える。上手が遠かった北の富士は、玉乃島の左かいなを抱えたまま吊り上げた。しかし、吊り合いでは一歩も二歩も上をいく玉乃島が北の富士を吊り返し、吊りの基本型である横吊り(横へ動きながらの吊り)で、白房下へそのまま吊りだした。
    これで大関同士の両者が13勝で並び、初の優勝決定戦となりました。

    両者支度部屋で汗を拭き、床山さんに髷を整えてもらい、さあ決定戦へ出陣。
    本割で上手が取れずに完敗した北の富士は右上手狙いに徹しようと心に決めて花道を上ってきた。
    場内の興奮は最高潮となり、時間いっぱい。
    立ち合いで軽くかち上げながら右上手を取ることに成功した北の富士。左腰を引いて玉乃島には右上手を与えない理想的態勢となった。ここでやはり、一瞬も休まずの速攻! 一気に寄り立てた北の富士。玉乃島は正面土俵際へ追い詰められながらも左下手まわし一本で北の富士を吊り上げ うっちゃろうとした。
    これを逃さぬ北の富士、「得意中の得意」である右外掛けを繰り出した。これが見事に決まって玉乃島はひっくり返った。

    この本割・決定戦の熱戦の相撲内容が評価されて、北の富士と玉乃島は、二人同時に横綱へ推挙されました。
    北の富士は、これまで不安定ながら、ここへきての、12勝(準優勝)→13勝.13勝でのふた場所連続優勝ですから一応は文句なしの昇進。
    一方、玉乃島は、13勝(優勝)→10勝→13勝(準優勝=優勝同点)での三場所合計36勝で、やや物足りないものの、大関在位20場所で206勝94敗、休場なし。負け越し1回。
    大関勝率は.668。
    優勝2回、準優勝6回。序盤での取りこぼしが少なく常に優勝争いに絡んでいた玉乃島。ふた場所連続負け越して角番をも経験している北の富士を、安定感で大きく上回っていた。
    北の富士を上回っていましたし、大鵬・柏戸との対戦成績でも、北の富士が 14勝39敗、勝率.264に対して、玉乃島は 18勝27敗、勝率.400と、柏・鵬に拮抗していたことも評価されたようです。
    気分屋で、調子に乗ると非常に好成績をあげるがひとたび集中力を欠くと全く勝たなくなるという ムラッ気が目立つ北の富士に対して、
    「右四つの型を極め、足腰も非常に強く、これからさらに強くなる! 玉乃島は、いったい どこまで強くなるのか?」と、協会幹部のみならず、他の部屋の親方たちからも期待されていた玉乃島。でした。

    背が高いのにスピード相撲をとり、とっても華のある北の富士。
    在日の家に生まれ、真面目でおとなしいが、いざ四つになると、構わず吊り上げるという豪華な相撲を取っていました。

    準優勝ながら優勝を逃した一番を反省して千秋楽の夜遅くに、部屋の力士を起こさないように 近所の公園で四股を踏んでいたのを、一門の後輩貴ノ花が、好成績でもなかったのか部屋の打ち上げパーティーで酔ってタクシーで帰宅しようとした時に、汗まみれで夜の公園で四股を踏み続ける玉の海を見て驚き、「俺はなにをしてるんだ。恥ずかしい」と猛省し、部屋に戻るなり、稽古まわしをつけて朝まで四股を踏んでいた。
    やたら早くに汗びっしょりの弟から話を聞いた師匠二子山親方が、数日後に片男波部屋を訪れ、
    『親方の自分が100回言って聞かすより、横綱の背中を一回見れただけで、変わった。ありがとうございました』と頭を下げて礼をしたそうです。

    北の富士さん?
    北の富士さんは、夜中には稽古しないですね。
    四股を踏んでいたかもしれませんが、努力を他人にはあまり見せないタイプ=長嶋茂雄さんタイプ でしょうね。

    1+
  • 投稿者:KON

    北の富士さん 会心の一番 ( 八

    二年半、16場所ぶり2度目の優勝

    昭和44年十一月九州場所十三日目、早々と優勝決定

    29歳にして優勝30回の大鵬も体にガタが来はじめていた。序盤二日目に相撲巧者・二子岳の、内無双から蹴返しの見事な合わせ技に右膝をついて土がついた大鵬は、七日目と八日目には藤ノ川と前乃山に雑な相撲ではたきをつけ込まれて連敗し、十日目から休場。
    場所は北の富士が独走。三日目に栃東の技能相撲に翻弄され上手出し投げで負けた以外は危なげなく勝ち進んだ。
    十二日目を終えて 11勝1敗は北の富士ただ一人。それを 2勝差の9勝3敗で追うのがライバル玉乃島と同期入門の龍虎の二人。
    十三日目は、結びの一番が玉乃島対清国、結び前に北の富士対琴櫻、その前が麒麟児対龍虎。
    まずは、龍虎が麒麟児に吊り出されてしまいました。これで龍虎は四敗となり脱落。
    続いて、西から土俵に上がった北の富士が琴櫻と見合う。
    ぶちかましの琴櫻に対し、手足が長く懐が深い北の富士。
    時間いっぱいとなり軍配が返る。
    立ち合いで北の富士は突っ張りをせずにいきなり左四つに組み止めた。意表をつかれた琴櫻がもがくも、北の富士は東の土俵際へ寄り進み、一度右上手投げをみせる。琴櫻がこの投げを堪えんとしたが、両足がやや流れた。
    これを逃さぬ北の富士が休まず右上手投げを連発。鮮やかに投げが決まった北の富士は、これで12勝1敗。
    勝ち残りで西土俵下で結びの玉乃島・清国の大関戦に目をやる。
    いつもより緊張した面持ちの玉乃島。軍配返っての結びの一番は、玉乃島に上手を取らせず先に先に攻めた清国が圧勝。
    画して、十四日目と千秋楽の二日を残して、北の富士の優勝が決まったのでした。

    ちなみに北の富士は、2年後の1971昭和46年の九州場所でも十三日目終了時点で12勝1敗ながら後続の星が伸びず、十三日目に小結・三重ノ海が平幕の輪島に敗れて4敗となり、結びで錦洋を肩透かしに斬って落とした北の富士が、二日残しで優勝を決めています。

    後に三度の全勝優勝をている北の富士ですが、十三日目で優勝を決めたのは、1敗だったこのふた場所だけ。
    いかに、他の力士たちが星の潰し合いをして北の富士だけが悠々と、天皇賜盃に向かってひとり旅してた・・
    ということですね。

    1+
  • 投稿者:匿名

    現役最年長且つ最古参の華吹が今日50歳になりました。
    50代の現役力士は記録の残る限りでは1907年1月場所限りで51歳9ヶ月で引退した鬼ヶ谷以来となります。

    0
  • 投稿者:KON

    北の富士部屋では、出羽海部屋での思い出2を紹介しています。
    それによると
    斜陽の名門が奇跡の復活 入門時の体重が倍になると強くなる角界の法則 

    いい天気ですねー。緊急事態宣言が解除となったのは何よりですが、まだまだ安心はできません。第2、第3の襲来を考えるとうんざりしますが、ここが我慢のしどころでしょう。プロ野球の開幕日も決まったようだし、少しずつ活気が戻り始めたのはいいことです。
     相撲界の方も四股、すり足、てっぽうの基本動作からぶつかり稽古を始めたようです。稽古もせずに飯ばっかり食べていると糖尿病になりますよ。それでなくても肥満力士が多いのに心配です。  幕下時代の私も入門して丸五年経ってもまだ細く、おそらく体重は90キロくらいでしょう。私だけではなく幕下以下の力士で100キロを超える人はいなかったのではないでしょうか。よく言うではありませんか。「小さく産んで、大きく育てる」と。
    入門時の体重が倍になると強くなる。例えば私を例に挙げてみましょう。  入門時70キロ。最高時で137キロ。大鵬さんは80キロくらいから全盛期は140キロから150キロ。柏戸さんも同じようなものです。玉の海関も70キロから140キロに。計らずともこのころの横綱は同じようなデータを示しています。大鵬さんは160キロぐらいまで大きくなりましたが、動きが悪くなり往年の強さはなくなってきている。柏戸さんも150キロをオーバーしたころから糖尿病になってしまいました。  これは決して偶然ではないのです。私は何とか140キロまで体重を増やそうと頑張りましたが、どういう訳か太れませんでした。振り返ると135キロがベスト体重だったと思います。今は幕内の平均体重は160キロを超えているようです。明らかに大きくなり過ぎです。太り過ぎの原因は稽古不足、その一言に尽きると思います。「過ぎたるは及ばざる如し」。昔の人はいい事を言うもんだ。とここまで書いて気がつきました。今日はこんなことを書くつもりじゃなかったのに大失敗です。私の運命は激動の時代へと向かっていきます。
    続きを書くはずが大きく横道にそれてしまった。
    気分を変え、枕話を少しばかりしてから本題に入ろうかと思ったのがまずかったようです。気を取り直して話を戻します。出羽海親方(元横綱常ノ花)が1960(昭和35)年の九州場所の千秋楽翌日、急死されました。前日の夜食べていたふぐにあたったという人もいましたが、それはないようです。私はずーっとお給仕していたので、それは信じられません。
     その晩は近くの温泉旅館に泊まりました。翌朝、ラジオの臨時放送で出羽海親方の訃報が発表されて大騒ぎとなりましたが、親方衆や関取衆も外泊し誰もいません。それでもニュースを聞いて1人、2人と帰って来ましたが、あまりの出来事に何にも手が打てない状態でした。ようやく全員がそろったのは昼も過ぎたころです。どの顔も青ざめて、中には泣いている人もいました。
     夕方になり親方、関取が一堂に集まり会議が始まりました。若い者は近づかないよう注意されました。後継者の話をしているんだと兄弟子たちが話しています。張り詰めたような緊張感が延々と続きます。すでに部屋の後継者は、前年に引退したばかりの九重親方(元横綱千代の山)と暗黙の内に決まっていたようですが、会議は予想外に長引きました。
     10時ごろようやく後継者は武蔵川親方(元幕内出羽ノ花)に決まりました。当然、千代の山関を推す声もありましたが、引退してまだ1年。年齢も34歳と若く、いろいろな経験を積んでからでも遅くない。ここは経験豊かな武蔵川親方にお願いということになったそうです。何よりも人望もあったからでしょう。こうして新しい師匠が決まったのです。
     といわれても武蔵川親方はめったに部屋に来ないので、われわれ若い者はあまりピンときていなかったのが本音です。正直言ってやはり千代の山関が良かったのにと思ったのは確かです。

     しかし、この新親方によって斜陽と言われた名門出羽海が奇跡の変貌を見せるのです。次回はいよいよ佳境を迎えることになります。何だか講釈師みたいですいません。調子に乗りすぎました。

    ・・・常ノ花の死因は、フグ中毒とも胃潰瘍とも言われていますね。  それにしても、入門時の体重が二倍になった頃が一番強くなっている  というのは当たっている例が多いですね。
    191㎝の白鵬も、初土俵のころの80㎏が150~155kgになった頃の無敵ぶりは手が付けられないほどでした。その体重が160㎏を超えてからは、立ち合いで相手の勢いを止められず不利な形になるようになり、その対策として、張り手やエルボーかち上げという雑な立ち合いが増えてきましたね。
    この10-20年間くらいの新弟子の身体検査では、140㎏、150㎏の肥満型が目立ちます。これで体重が二倍になったら・・・山本山や大露羅じゃあるまいし、小錦や照ノ富士、逸ノ城も体重の増えすぎが膝や足首、腰の痛みを誘発していますね。
    190㎝なら最重量時で150㎏程度、180㎝なら140㎏程度、170㎝前後なら125㎏程度が理想形なんだと思います。
    185㎝の貴乃花も 140㎏台後半だった頃の平成6年9月~平成8年9月までの13場所では、13場所連続で12勝以上という当時の新記録(従来は北の湖の12連続)で、優勝10回・準優勝3回 180勝15敗 勝率・923でしたが、曙や武蔵丸のパワー相撲に負けじと無理な体重増に対抗しようとした結果、背筋の肉離れや腸炎、上気道炎や肝臓機能障害などを次々に患い、病気のデパート状態。 テレビ中継でアップにされる顔は発疹で見苦しくなり、けいこ不足で上半身が肥え過ぎていました。
    まさに、過ぎたるは及ばざるがごとし。

    ステイホームで体重増になってしまっていたら、特に腹まわりが、気になったら、乗用車に頼らず歩きましょう。五階までぐらいなら、3密になるエレベータを避けて階段を利用しましょう。 自分の思っているベストな体重、、、、きっとそれがベストなので、そこに戻しましょう。

    1+
  • 投稿者:KON

    北の富士さん 会心の一番 ( 七

    目の上のたんこぶ 優勝30回の大横綱 大鵬から ようやく 3勝目

    昭和44年九月秋場所十三日目。
    直接対戦では3年半、415447 昭和41年五月夏場所から44年七月名古屋場所まで、負けに負けたり、なんと14連敗していた大鵬に、強い意気込みで挑んだ北の富士。

    入門以来から ずっと “ 稽古嫌い” で、口の悪いNHK解説者から「万年大関」と揶揄されていた大関北の富士でしたが、
    この秋場所はひと味もふた味も違いました。

    実は、
    角界に入門する前に、痩せ細った体で北海道から列車に揺られ船に揺られ、学生服に下駄履きで母に持たされた小豆3袋を携え上京してきた竹澤勝昭少年を、自宅に一カ月以上も住まわせてくれて、毎日毎日、飯をたらふく食べさせて貰った恩人 村上精一郎氏が、この場所の前に、脳軟化症で倒れ、死の淵をさまよっていて、お見舞いに行った際に病床で、『お前が綱を張ることを信じてるぞ』と激励された北の富士でした。

    “ 今までと同じではいけない!”と強く心に誓った北の富士。
    夜のヒットスタジオ」などのテレビ番組で歌う楽しい芸能活動をパタリとやめて、夏巡業では嘘のように変身して、人一倍稽古に励みました。
    秋場所は十一日目にライバル玉乃島に押し出されて三敗目。そして迎えた大鵬戦は十三日目結びの一番。
    これまで、なかなか勝てない第一人者の大鵬とは左の相四つで、北の富士も十分だが大鵬も十分。
    いつも通りに立ち合いすぐに左四つになったが、ここで北の富士は右上手の方へまわって、大鵬に一枚まわしとなった上手を引きつけさせない。
    右上手まわしをもう一枚掴もうと大鵬が上体を伸ばしてきた瞬間、ここぞ!と引きつけ十分の北の富士が一気に出た。
    左半身(ひだり はんみ)気味に残そうとする大鵬でしたが、北の富士は前にドドっと出ながら間髪入れず右上手投げを打って大鵬を転がした、 文字通り、快勝でした。

    ・・北の富士勝昭 会心の一番
    御本人が選ぶ ベストワン!は?

    御本人のチョイスだと、この昭和44年九州場所での大鵬戦なのではないか?
    と思います。
    Yさん、 コロナが落ち着いて、質問できたら、ご本人に訊いておいてくださいね。で、結果を教えてくださいね。
    私の選択でここに列挙した勝利以外に、ベストの勝ちがあったのか否か、
    あるのなら それはどれか、
    是非知りたいものです。Yさん、宜しくお願いします。

    さて、
    残る二日間の大関戦では “ 伝家の宝刀 ” 外掛けで連勝。この秋場所ひと場所での “ 外掛けでの勝利 ” は四番もありました。玉乃島と優勝を争い12勝の好成績を挙げた北の富士は、翌場所(九州場所)も好調を維持して2度目の優勝を遂げたのでした。

    北の富士さん会心の一番、まだまだ ご紹介します。

    1+
  • 投稿者:KON

    昨夜の8:50のコメントは尻切れトンボでしてすみません。

    続くのは

    当時の、大相撲回顧録や大相撲事件簿には出羽海割腹事件は載ってはいますが、出羽海部屋サイドからの見解はなかぬか聞けないものです。
    生き証人の北の富士さんならではのコメントでしたね。

    1+
  • 投稿者:KON

    五月場所ロスを埋める 北の富士場所
    今日はかなり深刻な思い出を語ってくれました。

    『親方が腹を切ったぞ』に衝撃を受けながら格好いいなとも感じた15歳…3年間だったが出羽海秀光親方に指導を受けられたのは名誉

    蔵前国技館での故出羽海理事長協会葬であいさつする元総理の岸信介氏が、弔辞で
    『勝って騒がれるのではなく、負けて騒がれる力士になれ』の一言は現在の力士にも脈々と伝わっている。

     今日5月27日で「北の富士場所」も四日目。
    相撲抜きで記事を書くのはけっこう難しいものですね。何しろ基礎ができていないのだからお許しを願いたい。

     それでは3日目の続きです。当時の出羽海部屋は横綱千代の山を筆頭に出羽錦、大晃、巨漢の大起、やぐら投げの羽島山、けたぐりの名人出羽湊。まだいたと思うが、忘れてしまった。十両も5、6人いました。この他行司、呼び出し、床山、幕下以下の力士も合わせると優に100人は超えていたと思われます。
     とにかく出羽の大所帯で若者の1人、2人脱走しても誰も気がつかないほどでした。
    師匠は出羽海秀光、元横綱常ノ花。優勝10回を誇る大横綱。相撲協会の理事長であり、名門中の名門出羽海一門の総帥でもあります。
    しかし部屋の実情は大変で、千代の山関は休場が続き、引退もささやかれていた。
     出羽錦、羽島山、その他の関取衆もベテランばかり。新聞、雑誌に斜陽出羽海部屋と書かれ始めていた。子供の私には何の事やらさっぱり理解できなかったが、太宰治の小説から引用したようだ。そんな時に発奮したかどうかは分からないが、千代の山関が破竹の勢いで連戦連勝、15戦全勝を果たしたではありませんか。千代の山関、5回目、最後の優勝でした。

     うれしかったなー。私は「俺が入門したから優勝したのかな」と(勝手に)本気で思ったものです。
    それと副賞についた森永製菓の三色アイスクリームを丼に山盛りで2杯も食べたのは今でも鮮やかに覚えている。あの時ばかりは力士になって本当に良かったなーと思ったものです。

     しかし、いいことばかりではありません。場所後すぐに地方巡業に出されました。現在は入門して半年間、相撲教習所に通うので楽なものです。15歳になったばかりの私にとって過酷な体験でした。関東巡業といって東京に近い村々をまわります。戦後10年、まだ物資の不自由な時代でトラックの荷台に分乗し、各地を転々とします。忘れられません。
     静岡県の千頭村(現榛原郡川根本町)に向かっている途中、ラジオを聞いていたら兄弟子が「親方が腹を切ったぞ」と叫んだ。
    翌日、巡業を切り上げ、大急ぎで東京に帰ってきました。幸い一命は取り留めたが、優勝から一転、師匠の自殺は15歳の私にとってあまりにも大きい体験でした。
     お茶屋(今の国技館サービス)問題が国会に取り上げられ、その責任をとり、割腹に及んだと兄弟子に聞かされましたが、腹を切るのは昔の武士みたいで格好いいなとも感じました。やはり考えることは子供です。
     やがて傷も治り、元気になりましたが、その3年後の1960(昭和35)年九州場所後に急死。千秋楽の夜、大好物のふぐ鍋を食べ、豪快に酒を飲んで大いにご機嫌だったのですが、朝起きたら亡くなっていたのです。
     なかなか体が大きくならない私に「俺も小さかったが稽古をたくさんして強くなったのだから、おまえも頑張れ」と励ましていただきました。それに花札まで教えていただきました。「花札と相撲は国技だ」。そんな冗談も言っていました。

     晩年、栃木山の春日野親方と一杯やりながら2人で座布団を挟んで仲良く“コイコイ”をしていたのを思い出します。
    私は18年間の現役中、3人の師匠に指導を受けました。
    3年間と短い期間でしたが、出羽海秀光親方を一番目の師匠にいただけたのは望外の喜びであり、名誉でありました。中でも安芸ノ海関が双葉山関の69連勝を阻止した折に発した「勝って騒がれるのではなく、負けて騒がれる力士になれ」の一言は現在の力士の中にも脈々と受け継がれています。どうしても出羽海時代の話になると、とりとめがありません。私の運命はさらに激動の時代へと向かっていきます。
     話が少し深刻になり始めましたが、別に大したことではありません。こんな話はおそらく退屈でしょう。あっと驚く話が出るかもしれません。それではまた。

    ・・・いやいや、北の富士さん、元常ノ花寛市さんの理事長時代の割腹事件をここまで知ることができたのは、たいへん貴重です。
    当時の

    4+
  • 投稿者:KON

    北の富士さん 会心の一番 (六

    ついに幕内初優勝

    昭和42年三月春場所千秋楽

    横綱には、
    ふた場所連続で全勝優勝し6連覇中・優勝回数24回の絶好調大鵬に、柏戸と佐田の山、そして先輩大関の豊山とライバル玉乃島が大関に名を連ねる という、実力者揃いの番付の中、東正大関の北の富士が 14勝を挙げ、ついに初優勝を遂げました。

    柏戸に右四つに組み止められ、構わず出てくる柏戸の出足を止めようと慣れない右からのすくい投げを打った大鵬。これが悪く、柏戸に右上手を引きつけられ、さらに出てきた柏戸の寄りに屈して12勝2敗となった大鵬が、その大鵬にすくい投げで敗れただけの1敗をキープして優勝争いで先行する北の富士を追う形で迎えた千秋楽、

    結び前の一番で横綱柏戸と北の富士の一番。

    立ち合いで、いきなり柏戸の首に「ガシッ」と両手をあてがい、両手でのノド輪 というまことに珍しい形になった。
    反り身になって堪える柏戸が左手で北の富士の右ノド輪を下から肘を持ち上げて外した途端、北の富士が左をのぞかせての肩透かしをタイミングよく見舞った。
    すると、のけ反り気味だった柏戸はつっかえ棒が取れた形になって前にのめり、堪えきれずに手をついてしまった為、結びの大鵬・佐田の山戦を待たずに、あっさりと北の富士の幕内初優勝が決まりました。

    こうして、恩師千代ノ山が出羽海部屋から独立して九重部屋を興したばかりのこの春場所で、大関北の富士は見事に初優勝したのでした。
    十両でも、新九重部屋の松前山が優勝し、千秋楽の夜、部屋が出来立てで後援会の打ち上げパーティーも小規模でしたが、男泣きしたと思ったら一転 破顔してばかりの師匠と一緒に、美酒をしこたま味わったそうです。

    大鵬と柏戸がフル出場した場所での初優勝でしたから、相当価値のある優勝でした。
    しかも、古巣の出羽海部屋勢である 横綱佐田の山・小結福の花・前頭3枚目義ノ花との対戦にすべて勝利しての優勝だったので、九重親方も さぞかし 溜飲が下がったことでしょう。

    5+
  • 投稿者:KON

    三代若乃花も夏場所ロスを埋めるべくABEMAで語りましたね。

    元横綱・若乃花の花田虎上氏が、同じく元横綱で弟の貴乃花の強さについて改めて言及しました。
    また、兄でありながら貴乃花の付き人だった当時のことを思い返して「お風呂場で背中を流していた。誇らしかった」といったエピソードも明かした。
     
     23日にABEMAで「記憶に残る名勝負100連発」と題して放送された『大相撲ABEMA場所』に出演した花田氏が、番組の中で、貴乃花について触れました。

     「スピード出世」というテーマでは、1990平成2年大阪場所の14日目、駒不動との一番に臨んだ当時17歳の貴花田が、勝ち越せば幕内昇進を決定的なものにする取組が紹介された。この取り組みに見事勝利して勝ち越しを決め、史上最年少での新入幕を果たした貴花田は、後に平成の大横綱として角界を引っ張った。
     清野茂樹アナウンサーから「出世争いというところで、弟が先に行ったことはどのような気持ちだったのですか」と投げかけられた花田氏は「何もないです」ときっぱり。
    さらに「自分は自分のペースで行こうと。私、弟の付き人についていた時もあります。お風呂場で背中を流してましたから」と笑顔で答えると「誇らしかった。七光りが通用しない世界ですから」と続けた。

     改めて弟・貴乃花の強さを問われた花田氏は「前に攻めて、自分の形は右四つだが、両方どちらでも相撲が取れる。それが一番強い」と振り返ると、近年、力士のケガが増えていることにも触れ「体つきを見てもらいたい。ただ大きく太っているだけではダメ」と話した。

    また、番組内では、大相撲史に残る一番、千代の富士-貴花田戦について
    「千代の富士さん辞めないでと思った」「相撲の歴史が変わった」と、当時の心境を振り返った。

     花田は5月23日に放送されたABEMAの特番に生出演。
    新型コロナウイルスの影響で三月場所は無観客開催、五月場所は中止となる中、ファンを楽しませようと決まった番組で、過去の映像なども振り返りながら、視聴者を楽しませた。

     「横綱が引退を決めた取組」というテーマで5つの取組が紹介されると、その1位に選ばれたのは昭和の大横綱・千代の富士と、後に平成の大横綱・貴乃花になる貴花田との一番。小さな体ながら大きな力士をなぎ倒してきた千代の富士が、角界のサラブレッドで当時18歳だった貴花田に敗れ、引退を決意したことは今なお相撲ファンの間でも語り継がれている。

     当時、若花田だった花田も、既に幕内にいたものの、番付上位でなかったこともあり、対戦は叶わず。
    2場所連続休場から進退をかけて土俵に上がっていた千代の富士に対して「やりたいから現役辞めないでと思っていた。負けてもいいから(
    小さな大横綱千代の富士さんと)やりたかった」と、募る思いがあったと明かした。
    また、事実上 千代の富士が横綱の引退を決めた一番で、実の弟が勝利したことには「取組を見て、相撲の歴史が変わったとつくづく思った」とも語っていた。

    6+
  • 投稿者:KON

    夏場所ロス・・の中、外出もままならず、北の富士さんがどされているか心配してましたが、どうやら、お元気そうで、貴重な思い出話を寄稿されていたのでご紹介します。題して「北の富士場所」

    力士にとって『マージャンは脇が空くから駄目』入門時の師匠・出羽海理事長から授かった金言…辞任した黒川検事長は文字通り脇が甘かった。

     北の富士場所2日目は、今話題の賭けマージャンであります。北の富士さんに言わせると、マージャンは力士にとっても「即アウト」。遊んでいいのは、花札だとか。さて、その理由は―。
      ◇  ◇  ◇
     こんにちは、お元気ですか。24日のNHK総合テレビ、見ていただきましたか。私も若かったし、故千代の富士(元九重親方)も絶頂期を迎えんとしていた時期だけに、自信にあふれて、いい顔をしていたね。北勝海(現八角親方)は、まだ初々しくかわいかったが、今では理事長である。私なんぞは側にも寄れない存在であります。この2人で10連覇、9連覇と怒濤(どとう)の進撃が始まるのであります。まさにこの世の春を体験させてもらいました。
     さて、きょうは何を書きましょうか。何しろ肝心の相撲がないので、どのように話を進めていいのか苦労する。入門時から始めようと考えてはいましたが、気になることがニュースになったので、ちょっとだけ触れてみたいと思います。長いこと、この仕事をさせてもらってますが、固い話はなかったと思う。まして私風情が政治を語るとは恐ろしい世の中になったものです。

     気になった話とは黒川検事長が、賭けマージャンで辞任したことであります。
    ちなみに私はマージャンはしません、できません。多分、父親が大変なマージャン好きで、母と年中けんかをしているのを見て育ち、自然にマージャンは悪い遊びと思ったのでしょう。
     ところが相撲部屋に入門して驚きました。関取衆は稽古が終わり飯を食うとすぐにマージャン。暇さえあればマージャン。夜も遅くまでマージャンが続く。腹がすくとラーメンを頼め、水を持ってこい。われわれ若い力士は寝る暇さえないほどで、ますますマージャン嫌いになったのです。後年、武蔵川理事長(元幕内出羽ノ花)に「おまえはマージャンをしないのだけが偉い」とほめられました。
     話は戻ります。入門当時の師匠だった出羽海理事長(元横綱常ノ花)が大のマージャン嫌いだったのです。親方いわく「パイをまぜる時、打つ時に脇が空くマージャンをやると脇が甘くなる」が持論でした。
    時々マージャンをやっているところを見つけると、いつも持ち歩いている象牙のステッキで思い切り頭を殴ってました。
     話は続きます。これからが面白いのです。師匠はこうも言いました。
    「マージャンは脇が空くので相撲の為にはならないが、その点花札は、札を打つ時に脇が締まるので稽古になる」。言い得て妙な話である。それ以来私は花札が好きになりました。何の娯楽もない時代であります。ちゃんこ場の片隅で座布団を挟んで兄弟弟子と一文10円、1、2時間取ったり取られたりしてせいぜい何百円。ささやかな楽しみです。
     師匠はこんなことも言っています。「マージャンは中国から来たもの。花札は日本古来の文化。大いにやるべし」。いい時代でした。というわけで今回の黒川さんの件はアウト。やはり出羽海親方はすごい。「マージャンは脇が空くから駄目」。黒川さんは文字通り脇が甘かったようだ。おしまい。
    お後がよろしいようで。

    ・・・夏場所ロスの穴を埋めてくれる北の富士さん。
    元気そうで何よりです。

    5+
  • 1 2 3 164

    コメントを残す

    日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)