「お国自慢」の記事一覧

東日本大震災から5年8か月 津波注意報に人々の変化は
大船渡市
11月22日の早朝、岩手県大船渡市に津波注意報の発令を告げるサイレンが鳴り響いた。東日本大震災から5年8か月。あの大津波の経験は沿岸被災地に住む人々の意識に変化を与えたのだろうか。 11月22日午前5時59分、福島県沖を震源とするマグニチュード7.4の地震が発生した。岩手県内では最大震度3を観測。気象庁は地震発生から2分後の午前6時2分、福島県に津波警報、青森県太平洋沿岸、岩手県、宮城県などに津波注意報を発令。まちには津波注意報の発令を告げるサイレン音が鳴り響き、高台への避難を呼びかける音声が防災無線から繰り返された。 サンマの水揚げ本州一を誇る大船渡市魚市場では今季のサンマ漁が終盤を迎え、この日は大型サンマ船7隻64トンの水揚げが予定されていた。海に隣接する同市場で働く人たちの動きは早かった。 同市場の職員や仲買人たちは屋上駐車場にフォークリフトを避難させたうえで、自らも高台に避難。サンマを水産加工会社などに運ぶために集まっていた大型トラックの運転手たちも車とともに高台に避難した。 東日本大震災で被災した経験から自らの命だけでなく、トラックやフォークリフトなど値の張る商売道具を守るための行動を取ったのだ。 同市大船渡町の高台にある市指定の避難所・大船渡地区公民館には津波注意報発令から30分ほどで約40人が避難したほか、避難所には入らず駐車場に停めた車の中にいる人や海の方を見つめている人の姿も。注意報発令が早朝だったため、家族そろっての避難が多い。 中にはポータブルDVDプレーヤーやミニカーなどのおもちゃを持ち込み、1歳の子どもを退屈させないような工夫をしている30代の母親の姿もあった。 市職員の夫を持ち、いざというときは自分1人で子どもを連れて避難しなくてはいけないため、常に用意している避難用のバッグは季節ごとに中身を入れ替えているという。 避難している人たちは高台にいる安心感からか落ち着きを見せながらも津波への警戒心を隠せなかった。 大船渡市では市内の小学校12校と中学校8校すべてが休校。震災の津波進水区域にあるスーパーやコンビニエンスストアが営業を休止したほか、沿岸部の事業所は自宅待機、復興工事の現場は工事をストップした。 注意報の解除を受けて工事や営業が再開。まちは活気を取り戻した。 東日本大震災による未曾有の大津波に襲われた経験は住民の心に深く刻まれている。今回の素早い避難行動はその表れだ。 教育委員会や各事業所もいち早く反応し、休校や自宅待機等の措置を取った。しかし、海にほど近い場所で営業や業務を続けたコンビニエンスストアや事業所もあるという。 これらの店や事業所の多くは責任者が地元の人間ではない、つまり東日本大震災による津波を実際に経験していない人が津波注意報を過小評価したように感じられる。 同市で観測された津波は40センチで確かに大きな被害は出なかったが、沿岸部にいる人たちには「地震が起きたら高台に避難」という命を守る行動を改めて心に刻んでもらいたい。…
UNIQLO生誕祭に行ってみた
埼玉県
23日(水)から7日間開催されるUNIQLOの誕生感謝祭。初日に早速、子供2人を連れて旦那と行ってきた。埼玉県某所にある ららぽーと内のUNIQLOでは、開店と同時に我先にと店内になだれ込む買い物客の波があった。 店頭では「プリキュアとジュウオウジャーの極暖ヒートテックの整理券はこちらです!」と呼びかけるスタッフの姿。何やら、子供たちに人気のキャラクターがデザインされたインナーが発売され、先着でオリジナルデザインのグッズやフィギュアがもらえるということもあり、整理券を配布するほどの人気のようだ。 そんな行列を横目に、私と子供たちは目玉商品のヒートテック売場へ。数日前に、ヒートテックがメンズ・ウィメンズそれぞれ1点790円に値下げするという情報をチラシで目にした。寒がりな私達夫婦がここ数年愛用していたヒートテックを新調することに決めたのだ。 ヒートテックを何着か買い物カゴに入れ旦那の元に行くと、何やら悩んでいる様子。どうしたんだと聞くと、「普通のヒートテックにするか極暖ヒートテックにするか悩む…」だそうだ。旦那は普段会社でワイシャツの下に半袖のインナーを着ているのだが、夏はサラファイン、冬はヒートテックと、UNIQLOインナー様様な状態、昨年は購入を見送った極暖ヒートテックだが、感謝祭で価格が下がった事もあり、悩んでいるという。   結局、極暖ヒートテックを購入することに決め、いざレジへ。その瞬間、目の前に広がる光景に目を疑った。開店から1時間も経っていないうちに、会計を待つ列が店内にズラリと伸びているではないか。少なくとも50人、いや、70~80人は並んでいそうだ。大人の買い物に付き合うのに飽きてグズり始めた子供たちの手を引き、急いで列の最後尾へ並ぶと、目の前では年配の女性が「ちょっとこれは待てないわ」と購入予定だったであろう商品を店員に手渡していた。 確かに、ここまでの長蛇の列を見ると、会計までにどれだけ待たなくてはいけないのかと気が遠くなってしまうのもわかる。しかし、レジの数も多く店員の会計処理もスムーズだったこともあり、思ったより時間はかからなかった印象だ。 私達家族は今回、ヒートテックインナーを主に購入したが、店内には他にもカシミヤセーターやウルトラライトダウンなど、感謝価格となっている人気商品が多数見られた。さらに、感謝祭の後半から新たに値下げする商品もあるようだ。 期間中は毎日、購入金額が1万円を超えると先着で豪華ノベルティがもらえる(ステンレスボトル、トートバック、オリジナル手帳から選べる)というのも嬉しい。東京都心でも「初雪」が観測され今後も冷え込む日々が予想される中、UNIQLO生誕祭最終日まで客足は途絶えることが無さそうだ。 [ume-y @flier]…
気が付けば朗朗介護(13) -入居者が安心して生活できるように-
神奈川県相模原市の障がい者施設で起きた悲惨な事件には、本当に胸が痛む。身勝手な鬼畜が、何の罪もない39人に凶行を及ぼし、19人の尊い命が奪われてしまったのだ。就寝中の真夜中、しかも障がいを持つ無抵抗な方々だ。その無念さはいかばかりか。亡くなられた19人の方々のご冥福を心からお祈りするとともに、犯行に及んだ身勝手な鬼畜を絶対に許すことはできない。 連日報道されるこのニュースを、母は神妙な面持ちで見ていた。普段から陽気な母にしては口数がとても少ない。母なりに何かを感じているんだと、その顔つきからわかった。「車いすでの生活、息子やヘルパーさんの手を借りなければ生きていけない。つらいけど、そのつらさを笑顔にかえて生きているのだ。それなのに・・」そう思っているに違いない。私も同じ思いだから、その気持ちが痛いほど分かった。けしてきれいごとではない。私たちは、家族の支えはもちろん、社会の支えがあってこそ、生きていけるのだ。それなのに、この事件は私たちの平穏に生きようと努力している毎日を、不安な暗闇に一気に突き落とした。そんな思いにさせたのだ。 母がショートステイした特養ホームの玄関ドアも、外からは開かなかった。職員に名前と要件を伝えると、自動ドアを開いてくれる仕組みだ。認知症の患者さんの徘徊防止もあるが、外部から不審者の侵入を防ぐこともあるのだろう。しかし、今回の事件のように内部に詳しい者なら、侵入するのは容易だ。入居者が安心して生活できるよう、施設の運営には国や自治体もからみ、対策をお願いしたい。 さて、ショートステイ体験の続き。南の島から戻り、家に荷物を置くと、すぐさま車を走らせた。寂しがっているか、落ち込んでいるかと心配で仕方なかったのだ。しかしそれは杞憂だった。コミュニティスペースで、母はおばあさんと談笑の真っ最中。うまく話せない母が、そんな気配を微塵も感じさせずに、話に夢中だったのだ。「なんだよ、急いできたのに・・拍子抜けだ(笑)」(私の心の言葉)。でも、ものすごくホッとした。帰りの車の中で、母にショートステイの感想を聞いてみた。施設では夜中は担当者が2人しかおらず、トイレに行きたくて呼んでもなかなか来てくれなかった。そして何回もブザーを押したため、強い口調でたしなめられたとのこと。それは三晩泊ったうちひと夜の出来事だった。他は食事もおいしかったし、ゆっくり休めたし、おばあさんとも話しができ、「まあまあ良かった」というのが母の感想だった。「また行ってもらうかもよ」と言うと、「え・・。いやだけどしかたないか」と母はあきらめ顔で答えた。 事前に施設には、腎臓の薬を飲んでいてトイレが近いことを話していたのに、対応に不備があったのではないかと、ケアマネージャーに伝えておくと、一週間後、施設から連絡があった。施設ではさっそく該当の夜勤者に事情を聴いたとのこと。「そんなに強い口調で言っていない、手が足りなかったから」との夜勤者の話に、言った言わないではなく、入居者が不快な思いをした時点で自分の行動を反省すべきだと、その夜勤者を諭したとのことだった。この誠実な対応に、今後もその施設を利用しようと考えている。(第一部完) ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
気が付けば朗朗介護(12) -生きてる限りは、好きなものを-
先月末、母は3泊4日のショートステイを初体験した。前号で書いた通り、ショートステイとは「介護する側が少しでもリフレッシュできるよう、施設で短期間介護をしてもらうこと」である。「介護する側、つまりオレがリフレッシュするためのものなのだ」とワクワクしていたのだ。しかし楽しいことは易々とはやってこないもので、事前準備が大変で、前日は夜遅くまでバタバタだった。まずは施設に持ち込む物すべてに名前を書く作業から。歯ブラシ、歯磨き粉、くし、歯磨き用のコップから、タオル、パジャマ、下着まで。そして、そのすべてを指定の表に書き込んでいく。それは、枚数、色や形などとても細かく書くように指示されているのだ。母の下着の形と言われてもなあ・・。 荷物を鞄に詰めていると、母の下着がだいぶくたびれていることに気付いた。「あの家族、こんな古くなった下着を穿かせているのか」と思われても癪だから、夜中まで開いているスーパーへ駆け込んだ。レジの女性の冷たい視線は、明らかに「HENTAI OYAJI」を見る目だった。夜更けに女性用下着を3枚買っていく中年を、怪訝に思うのは仕方ないことだ。次に面倒だったのが持っていく薬の整理。薬が主食かというくらい、母は朝昼晩、食間、寝る前に分けて大量の処方されている。「いつ飲む薬で何を何錠飲むか」とマジックで書いた袋を作り、分けて詰めた。 トイレは大丈夫なのか、薬の飲み忘れはないだろうか、あれこれ心配は尽きない。初めての遠足に子供を行かせる親のような思いで、ショートステイの準備をした。 そして当日。希望すれば送迎もあるのだが(もちろん有料)、母の不安な気持ちがやわらげればとの思いと、対応してくれる施設の人たちを自分の目で確かめておきたいと考え、車で送っていった。 部屋に着くと、すべての荷物がベッドに広げられ、施設の人が色や形、数量をチェックし、表に記入していった。(あれ?昨夜遅くまでオレがやったのに・・あれはなんだったの?)とちょっとイライラするも、これから母を預けるのだからとグッとこらえ、(超作り)笑顔でスルーした。さらにそのすべてを一つずつデジカメに記録していた。もし、どうしても家に帰りたくなったら困ると思い、家の鍵をこっそり持たせたのだが、必要ないと返された。施設内に飲物の自販機があったので、500円玉6枚を渡しておいたのだが、現金は一切いらないと、これも返された。施設では、現金や物が無くなったというトラブルが多いとのこと。フロアは違うが認知症の入居者もいることから、トラブルを最小限に抑えるために、持ち物については厳重な管理体制をしているとの説明だった。 さあ、これで準備万端。施設の方にあいさつし、帰ることにした。母は不安げな顔で、しかも涙ぐんでいた。でもこれは母にとっても私にとっても大きな試練である。母は子離れし、他人からの世話にも慣れていかなければいけない。私もある意味「母離れ」しなければいけない時なのだ。心を鬼にし、振り向かずに施設を後にした。 家に着いた私は荷物をまとめ、空港へ向かった。そして一人、南の島へと旅立ったのである。(続く) ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
気が付けば朗朗介護(11) -介護する側が少しでもリフレッシュできるよう-
ここ15年、出張や旅行の時には弟と相談し、どちらかが家に残り母の介護を受け持ってきたのだが、先月弟が新居を構えて家を出てしまい、実質私一人で母の介護をすることになった。つまり、思っていたより早く「老々介護」がスタートしてしまった。まだ「朗朗介護」と呼べるほど、心に余裕はないのだが。 まず母に頼んだのは、ショートステイに行ってもらうこと。元来、そういう施設に行くのを嫌がる母は、デーサービスも利用しないのだが、これからはそうはいかない。母のためでなく、私のため。私にとっての死活問題なのだ。時間をかけて説得した結果、母は渋々了解した。 「ショートステイは、介護しているご家族のためにあるのですよ」 契約のために訪ねた特別養護老人ホーム(特養)で、担当の方がそう言ってくれた。 ショートステイは「短期入所生活介護」と言い、数日から1週間程度の短期間施設へ入所し、日常生活の介護や機能訓練などの介護を受けながら施設での生活を送ることのできるサービスである。「短期入所生活介護(ショートステイ)はこんな時に!」という手引きにはこう書いてある。 ・介護する側が体調を崩してしまって、自宅で介護するのが難しくなった。 ・旅行や冠婚葬祭で一時的に自宅をあけたい。 ・介護負担軽減のために短期間面倒を見てほしい。 要は、介護する側が少しでもリフレッシュできるよう、施設で短期間介護をしてもらうことなのだ。できるだけ在宅介護を続けたいとは思っても、介護する側の体調や精神面のも限度がある。介護の負担は想像を絶するものなのだ。最近、夜中に母の声やちょっとした物音で目が覚めてしまい、そのあと寝付けなくなることが多くなった。母はできるだけ静かにしようと気を付けているというのだが、不自由な体でポータブルトイレや車いすに移動すれば、どうしても大きい音がしてしまう。私は「転倒したか?」と気が気じゃない。短期間でも介護から解放されるなら、旅行になど出かけなくてもリフレッシュされるのだ。 ショートステイの利用は、ケアマネージャーに相談することから始まる。施設の空きや、利用者の介護状態から探してくれるのだが、どこも混んでいるようで、早急の利用には対応できない。少なくても1~2か月前からの申し込みが必要なのである。今回のショートステイ先は、宅からほど近い特別養護老人ホーム(特養)。契約のため、施設の見学を兼ねて訪ねたが、担当者と看護師が母の日常生活を細かく聞き取り、できるだけ日常生活と変わらずに過ごせるように考慮してくれる。また特養は、個室のない「多床室」、一人用個室のみの「従来型個室」、一人用個室に加えユニット(10人程度の生活単位)ごとに共同生活室が用意される「ユニット型個室」に分類されるのだが、ここはユニット型個室。広々とした部屋にベッド、テレビ、クローゼット、洗面台などが完備されていた。全国的な傾向として、多床室や従来型個室から、1人で過ごす個室と仲間との交流が図れる共同生活室を備えたユニット型個室への切り替えが進められており、現在は約半数がユニット型、3割強が多少室だという。 次号では、母のショートステイ初体験について報告したい。(続く) ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
気が付けば朗朗介護(10) -親子であるがゆえにお互いに抱え込むストレスも-
介護保険制度が本格的にスタートしたのは2000年(平成12年)のこと。母を引き取ったのが1985年(昭和60年)なので、15年後のことである。私にとって介護保険は比較的新しいものと感じるのだが、それは「苦労した15年間」が長かったからだと思う。 当時の役所は担当窓口が細分化され、担当する案件についての相談には対応してくれるが、総合的なアドバイスを受けるという仕組みはなかった。「わからないから利用できない」という事が多くあったかもしれない。私の場合、(少しだけ)強引な性格のおかげで、広く情報収集ができたし、さまざまな支援を受けることができた方ではないかと思う。 今から35年ほど前、身体障害者手帳の交付申請のため、市役所からの指示で母を病院へ連れて行った。リハビリ科の専門医が、母の手足の曲がり具合を大きな定規や分度器のようなもので測り、その数値を書類に記入。さらに、自力で手足がどれぐらい上がるか、杖を突いて歩ける距離、立ったり座ったりできるかなどの身体能力を調べた。「分度器を使うなんて、意外と原始的な方法で決めるんだ」と思ったものが、等級の結果は担当医が言っていたとおりだった。 現在の介護認定方法も似ている気がする。市の調査員が自宅を訪ね、母と家族(私)に対して面接調査を行う。そしてその結果を認定委員会に諮り、等級が決定するという仕組みだ。寝たきりの方など、明らかに等級の基準範囲に入る症状の方と違い、母の場合は失語症なのに臆せずしゃべるし、ケラケラとよく笑うし、顔色もいいものだから、調査員に好印象をもたれてしまって、等級が下がるのではないかと、内心ハラハラしてしまうのだ。しかし、等級の結果はケアマネージャーと話したとおりになる。どちらも、専門家の目で見て、しっかり判断しているのだろう。 介護保険制度が始まって変わったのは、サービスの提供が介護される人だけでなく介護する側にも配慮されるようになったことだ。ケアマネージャーと相談しながら介護サービスの利用計画(ケアプラン)を作るので、望んだサービスが受けやすくなるのだ。我が家のように、息子が母親を介護する例も珍しくはなくなったが、親子であるがゆえにお互いに抱え込むストレスも多い。ケアマネージャーは、介護する側の負担が少しでも軽くなるよう、さまざまなアドバイスをしてくれるのだ。 訪問看護によるシャワー入浴もその一つだ。大人を一人だけの力でシャワー入浴させるのはかなり疲れる。しかもそのあとの着替えも重労働だ。訪問看護ではその作業は2名体制で行い、シャワーの後に母の皮膚の状態を確認し、必要に応じて軟膏を塗るなどの処置も行う。最近では平日に休みを取るのは大変だろうと、皮膚科への通院介助にも対応してくれるし、その状況や報告を訪問看護のセンターから電話やメールで知らせてくれる。 来月、母にとって初めてのショートステイが待っている。ショートステイは、介護される人のメリットだけでなく、介護する側が毎日の介護からひととき解放されるのだ。しかし、今のところ母は行きたくないと駄々をこねているのだ。何事も経験と言い聞かせているのだが・・・。(続く) ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
気が付けば朗朗介護(9) -生きてる限りは、好きなものを-
長くお母様の介護していた友人Tさんと久しぶりに会った。Tさんのお母様は昨年亡くなったのが、それまで約10年間、ずっと1人で介護をしていた。「気が付いたらこんな歳になっていた」と笑って話すが、安堵の気持ちと寂しい気持ちが入り混じっている様子が私にもひしひし伝わってきた。私もいつかそんな思いをする時が必ず来るのだろう。 晩年、Tさんのお母様は認知症の症状も出始め、目が離せなくなったのだが、Tさんは仕事も忙しくなり、1日5回もヘルパーに来てもらっていたそうである。「介護保険を使っても、ヘルパーや訪問看護などにかかる費用は月16万円だったよ。」と聞いて驚いた。その額は、現在私が1ヶ月に支払っている額の5倍強なのである。 亡くなる3年前に施設に入所するのだが、その発端は総入れ歯が合わなくなったことだという。加齢で歯茎が収縮して徐々に入れ歯が合わなくなり、しまいには痛みで入れ歯が使えなくなったが、それでも歯茎で食事をしていたという。「歯茎では噛むのが大変だね」と聞くと、「きんさん、ぎんさん(双子のおばあちゃん)は歯茎だけで食事していたらしいけど、長生きしたから大丈夫だと思うよ」とその頃は答えていた。 ところがある日、「夕食のすき焼きの肉が噛み切れず、飲み込んだ肉が喉に詰まってしまって・・。救急車で病院に運んで、一命は取り留めたものの、その頃から食事が思うようにできなくなり、衰弱していった」そうである。「プリンが一番食べやすくて、毎日食べていたなあ。細かく刻まれた食べ物だけだったから、可哀そうだった。人は食事が満足にできなくなると、途端に体は弱ってしまうね」と話していたが、本当にそう思う。 そんな話をしながら思い出したのが「スマイルケア食」のことだ。もともと介護食品と呼ばれていた食品の範囲を農水省が再整理し、新しい介護食品としてより親しみを持てるよう呼び名を公募し、愛称が「スマイルケア食」となったのだ。ちなみにロゴマークやオリジナルテーマソングもあるとのこと。スマイルケア食は大きく次の3つに分類される。 ① 飲み込む機能に問題がある人向けの食品 ② 噛む機能に問題がある人向けの食品 ③ ①②の機能に問題はないものの、健康な体を維持し活動するために必要な栄養の不足の予防につながる食品 さらに、それぞれに色別のマークが付けられ、わかりやすい表示がなされている。今年夏以降、小売店などで商品選びに役立つツールとしてさらに詳しい早見表が作成され、運用が開始されることになっている。これからも興味深く見守っていきたい。 実は私の母も歯が合わなくなり、痛がるようになった。市販の入れ歯固定剤を使って応急処置はしているものの、歯茎での食事になってしまうのは時間の問題だろう。食事を作るときは野菜や肉などをより細かく切って調理するよう気をつけているし、また母が大好きな団子やまんじゅうなど餅系の甘味は、喉に詰まらない大きさに切って食べさせている。健康のためにバランスよく食事をとらせることは基本だが、生きてる限りは、好きなものを食べさせてあげたいと思う。(続く) ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
気が付けば朗朗介護(8) -不安と絶望感に耐えられなくなった時…-
この週末のことだった。夕食までは普段と変わりなく元気にしていた母が、夜中に突然体調不良を訴えた。どこか痛むのかと聞いても、苦しそうな顔をしながらも「わからない」というばかり。そのうちにうまく立てなくなり、1人での排尿が困難になってしまった。尿取りパットを使ってみたものの、間に合う量ではない。いくらふき取っても、母自身にもその周りにも臭いが充満してきた。私は途方に暮れた。37年も介護生活を送ってきて、こうした処理には慣れていたはずなのに、無性にむなしくなり、何とも言えない絶望感に襲われたのだ。とりあえずパットを装着した紙おむつを穿かせて、母をベッドに寝かせた。朝方、母の声で目が覚めてベッドへ行ってみると、布団から異臭が漂った。母の体調は幾分良くなってはいたものの、朝までトイレに行けずにパジャマも布団もびしょ濡れだったのだ。洗濯機を5回まわした。そして母の体をシャワーで洗い、きれいな下着とパジャマに着替えさせ、ご飯を食べさせ、昼寝をさせた頃には私の疲れはピークに達した。母を恨んでいるわけではないし、まして自分の人生を恨んでいるわけではない。そう、ただ言えることは私自身が気力を無くしているということ。加齢なのか、先が見えない不安なのか。はっきりした理由はわからないが、家での介護はそろそろ限界なのかもしれないと感じた。 疲れて昼寝した私が目覚めると、母はいつもと変わらず車いすに座り、相撲中継に夢中になり、ひいきの力士に大きな声援を送っていた。ホッとした気持ち半分、虚脱感半分。 在宅看護の限界は、介護する側が冷静でいられなくなった時ではないか。目の前の現実を受け入れることができず、不安と絶望感に耐えられなくなった時、人の手が必要になる。在宅看護の限界が近いことを暗示しているかもしれない。 さて前回の続き。就職して2年目、弟が地元の高校を卒業すると同時に母を迎えに行き、小さなアパートで暮らし始めた。今思えば、収入も少ないのになんと無謀なことをしたものかとあきれるのだが、その時は先のことなど全く考えず、「母をなんとかして幸せにするのだ」という正義感と責任感と思い込みだけで突っ走ったのだ。母は私と暮らせるだけで十分だと言って、家から持ってきたものはわずかな着替えと少しの思い出の品だけで、まるで旅行支度のような身軽さだった。 私はまずは区役所へ行った。障害者の支援について聞きたかったのだ。医療費免除、靴などの装具製作補助、バスやタクシーの利用券、日常的なさまざまな免除など、今ならネットで簡単に調べられることも、その頃は直接聞くほかはなかった。何度か通ううちに区役所の窓口担当者とも顔見知りになり、より親切に教えてくれるようになった。それから病院を探した。初めは家の近くが便利で安心と考え、近所の小規模な病院にかかったのが、大きな手術をした母には最新の医療設備が整っている病院の方がいいと勧められ、市立病院の脳神経外科を紹介された。そしてそれは担当医になったY脳神経外科部長との、長い付き合いのはじまりだったのだ。(続く) ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
気が付けば朗朗介護!(7) -家に帰ると驚く光景が!?-
母の1週間は忙しい。月曜から金曜の午前中はヘルパーさんが来て、身の回りの世話や昼食の準備をする。月曜と金曜はマッサージ師さんの訪問治療、火曜日は訪問看護師による歩行訓練等の指導、水曜日は訪問看護師二人によるシャワー入浴、さらに水曜日は買い物付添いの日で、ヘルパーさんと一緒に近くのスーパーマーケットまで買い物に出かけるのだ。数か月前まではさらに夕方の1時間、主に母の夕食準備のためヘルパーさんが来ていたが、人の出入りが多くてさすがに疲れると言うので、これは断ることにした。 これらのスケジュールはケアマネージャーと相談して決めるのだが、私も介護生活が長いので介護保険の仕組みにも詳しくなり、うちにとって必要な支援はどれかもおのずとわかるようになった。今のケアマネージャーは、小うるさい私のさまざまな要求にも真摯に、そして迅速に応えてくれるので、とても感謝しているし絶大な信頼を寄せている。 しかし、うまい介護スケジュールをいくら組んでみても、所詮は人と人の関わりだから、ヘルパーさんとの相性がとても重要になる。時にはどうしても合わないこともあり、ヘルパーさんのささいな言動や態度で母が落ち込むこともあれば、母がわからず屋でヘルパーさんに不快な思いをさせることもたくさんあるはずだ。帰宅すると母からその日の出来事を聞かされるのが常だが、嫌だったことやちょっと頭にくることも多くあり、そんな時は「人の手を借りないと生きてはいけないのだから、いつも感謝、ありがとうの気持ちを忘れちゃダメだよ」と言いきかせている。でもなによりのストレス解消は私にこぼすことなのだろう。 こうして平日の体制はできているが、問題は土曜と日曜、さらに平日の朝夜だ。この時間だけは家族が介護しなければならない。ケアマネージャーが言うには「介護保険は家族ができない部分を手助けすることが目的」らしいが、介護の資格がない家族が大部分をケアしなければならないのだから、家族にとっては大きな負担となる。介護ウツになる人が多いのもわからなくもない。私の介護生活のモットーは、一生懸命にならないこと、完璧にこなそうと思わないこと、気分転換の時間をできるだけ作ること。このエッセーのタイトルのように、朗らかに介護生活を送っていこうと決めている。 さて前回の続き。祖母に対してきついことを言ってしまった私に、祖母は涙をボロボロこぼしながら「おかあさんにごめんなさいって謝って。ほんとにごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返した。同じ目に合わないとわからないとは、なんて可哀そうな人だと思った。そして家に帰ると驚く光景が・・。父方の叔父叔母が寿司の出前を囲んで宴会の真っ最中だったのだ。祖母が倒れたというので集まったものの、命に別状がないことを知り、宴会が始まったのだろう。今思えば若気の至りだが、その人たちを見て私は怒りがこみ上げ、「オレは自分の母親の面倒は自分が見る、けどあんたたちの親(祖母のこと)の面倒は一切見ないからそのつもりで」と声を荒げた。その時の叔父叔母の唖然とした顔は今も忘れられない。宴会を開いていたその人たちは、祖母を特養老人ホームに入居させた。祖母は亡くなるまでの10数年をそのホームで過ごした。私は、ごめんなさいと繰り返した病室での出来事以来、告別式の日まで祖母の顔を見ることはなかった。(続く) ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
気が付けば朗朗介護(6) -悩み、苦しんだ分だけ 精神的な強さが持てた-
昭和54年4月、私は進学のため上京した。母もリハビリテーション病院での生活にようやく慣れてきたので、安心して家を離れることができた。4年後、卒業したら地元で就職しよう、その頃には母の体も良くなって家に戻っているだろう、そして元通りに近い生活を送れるに違いない。高校3年の1年間は、自分の人生にとってけして無駄ではなかったのだ。この時、私はそう信じて疑わなかった。 しかし、現実は厳しかった。私が上京し2カ月も経たないうちに、病院がとめるのも聞かずに父は母を退院させた。理由は「毎週通うのが大変だから」という身勝手な理由。そして母には、苦難の生活が待っていたのだ。 初めての夏休みに帰省してびっくりした。母の表情は暗く、正気が失せて見えたのだ。近所の人がいろんなことを教えてくれた。祖父母が母にとてもつらく当たっていること、気の毒で見ていられない、戻ってきてあげた方がいいんじゃないか・・。 隣のおばさんが我が家を訪ねた時、母は廊下を這いつくばって雑巾がけをさせられていた。しかもその様子を見ながら、祖父母は近所の人たちとお茶飲みをし、母の悪口を延々と語っていた、とてもいられるものではなかった、と。体が不自由になって母につらく当たる様は、近所の人も眉をひそめるほどだったという。 父と祖父母を問い詰めてみたものの、悪びれた様子もなく、全く聞く耳を持たない。母の病気が原因で家族みんなが精神的に追い詰められてしまったかもしれない。ある時祖母は私にこう言った。「助からなければよかったのに・・」この言葉で、私は母を連れてこの家を出ていこうと決めた。そうしなければ、三面記事に載るような大事件が起こるのではないかと、心底思った。 大学をやめて家に帰ってきて仕事を探し、少しでも早くこの家を出ようと、私の気持ちを母に語った。当然喜んでくれると思ったら、母は「4年間、私も絶対にがんばるから、大学だけは続けて欲しい。自分の将来のためにも。そして、卒業したら世話になるから」と言うのだった。生きるというのはどうしてこうもつらいのだろう。そしてせつないのだろう。18歳の私にはあまりに大きな悩みだった。しかし、たくさん悩み、苦しんだ分だけ、私も母も「たいていのことには負けない」という精神的な強さを持つことができたのだと思う。 中学生の弟に母を守るように言い聞かせて、私は大学に戻った。そして、休みには一目散に帰省し、祖父母に睨みをきかせていたのだ。そのせいで祖母は私のことが疎ましくてしかたがなく、些細なことでいつも大口論(喧嘩かもしれないが)となった。つくづく嫌になったが、それも卒業までのわずかな期間だからと自分に言い聞かせていた。 大学3年の春休みのこと。朝起きると祖母が茶の間で口から泡を吹いて倒れていた。すぐに救急車で搬送したが、母と同じ脳溢血、しかも左脳を痛めことによる右半身不随という、母と全く同じ体になってしまったのだ。 意識を取り戻した祖母に私は、「廊下の雑巾がけ、できる?やってみてよ」と思わず言ってしまったのだった。(続く) ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
気が付けば朗朗介護(5)-「床ずれ」は油断ならぬ病気だ-
母は、起きてから寝るまでの時間のほとんどを、車いすに座って過ごしている。立つのは排泄時のわずかな時間だけ。先日のこと。「おしりがものすごくかゆい」と言うので見てみると、猿のように皮膚が真っ赤に腫れていてびっくり!ムムッ、もしや、これは床ずれの症状ではないかと不安になり、すぐに主治医へ連れて行った。 ネットで調べてみると、床ずれは褥瘡(じょくそう)、褥瘡性潰瘍、圧迫潰瘍とも呼ばれ、圧迫により皮膚に血液が十分流れなくなり、その部分が損傷を受けた状態のことをいう。年齢に関係なく、寝たきりの人や車いすが手放せない人、自分では体の向きや位置を変えられない人なら誰でもできるもので、高齢者に比較的多くみられる。骨が突き出ていて皮膚への圧迫が集中しやすい部分、たとえば腰、お尻、かかと、足首、ひじなどは床ずれができやすい場所で、また、ベッド、車いす、ギプス、添え木などの硬い物体から皮膚に圧迫が加わる部位にも生じる。床ずれは、治療をしなかったり、原因となっている病気のために治癒が妨げられている場合には生命に関わることもあるというから、油断ならぬ病気なのである。健常な人は、たとえぐっすり寝込んでいても絶えず体を動かしているので床ずれは生じないのだ。 主治医の提案で、週2回程度、訪問看護士に自宅へ来てもらい、患部の洗浄や薬塗り、さらには車いすの正しい座り方などの指導も受けることになった。 母の体調や生活習慣の変化には常に気を配り、早めに対処をあげなければなあと、あらためて思った。 さて前回の続き。転院するリハビリテーション病院は、隣県の有名な温泉地にあった。医療体制が今ほど充実していない時代にあって、この病院はすこぶる評判がよく、簡単に入院できるところではなかった。そう、あのM先生が何度も病院に掛け合ってくれて、ようやく手に入れたプラチナチケットなのだ。しかし当の本人はご機嫌斜め。2人だったから頑張ったけど1人は不安だ、嫌だ、行きたくないと、駄々っ子みたいなことを言って周囲を困らせる。私は「病気にはなったけど、人生はまだこれから」、「今頑張れば、これからいっぱい楽しいことがある」、「週末には行くから」と何度も説得し、渋々承諾したのだった。 そして迎えた転院の日。M先生はじめお世話になった看護士さんに見送られ、母は泣きながら手を振り、隣県の病院へと向かった。 そして私は普通の高校生へ戻り、母は1人でリハビリに励むことになった。母との約束通り、週末には病院へと通うようにしたが、前の病院からさらに2時間ほどかかるし、病院には泊まれないため、近くの手ごろな温泉旅館に泊まらなければならなかった。 この病院では、日常生活ができることを目標に掲げていた。だから身体機能の回復だけでなく、動く左手だけでの調理の仕方や洗濯物のたたみ方、箸の使い方など細かく訓練カリキュラムが組まれていて、さらに言語回復訓練も行われていた。(続く) ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
気が付けば朗々介護(4) -介護には自身の体力作りが必須だ-
50代半ばになっても自分はまだ若いつもりでいるのだが、体の衰えは正直なもので、介護していて「しんどい」と感じることが増えてきた。その最たる作業は週2回のシャワー介助である。右半身の麻痺が影響しているのか、母は極端に寒がりで、特に動かない右足は、私が触っても冷たく感じるほどだ。なので、まずは浴室を暖房機能で十分に温めておかなければならない。頃合いを見て浴室の椅子に腰かけさせる。しかも転倒しないよう、細心の注意を払いながら。そして体が温まるまで少し熱めのシャワーを体全体にかけて、髪、背中そして全身を洗う。そんなに広くない浴室の中で、私はいつも全身汗だくになりながら奮闘している。シャワーを出た後も、体にシッカロールと保身クリームを塗り、着替えの介助をする。こうして一連の行程が終わるころには、私は疲れてクタクタのなってしまうのだ。それでも唯一救われているのは、「気持ちよかった!ありがとう」という母の言葉だ。 杖をついて歩けた時期は、少しの介助だけで湯船に入ることもできたし、たいていのことは自分でやれたのだが、何度か転倒し、足の手術をして車いす生活になってからというもの、シャワーだけになってしまった。もっともデイサービスを利用するという手もある。近年のケアプラザには最新の浴室が整備されているし。しかし、母はデイサービスに行くことに関しては断固拒否の姿勢を貫いている。以前近所のケアプラザに通所していた時、浴室で母の体を洗い始めたのが男性だったことに母は憤り、それ以来ケアプラザを毛嫌いし、また行ってみたらと勧めても聞く耳を持たないのだ。 それにしても今後の朗々介護生活を考えると、まずは私自身の体力作りが必須であることは間違いない。 さて、前回の続き。母の入院後、私が高校へ行ったのは中間試験と期末試験の時だけだった。よくも落第せずに卒業できたと思うが、それは担任の先生が事情を理解し、力になってくれたからである。病室の消灯時間後、私は外来の待合室やナースステーション(ちょっと間借り)、喫煙所(その頃は一晩中明かりが点いていた唯一の場所)などを転々とし、教科書を読んだりしていた。そのうちに警備員のおじさんや看護師とも顔見知りになり、お菓子や飲み物を差し入れてくれたり、励ましてくれたり、いろんな話を聞かせてもらったりして、それなりに楽しいナイトライフを過ごした。その頃、私には一つだけ夢があった。それは大学へ進学すること。母は中学を卒業してすぐに働き、若くして私を生み、苦労を重ねてきた。そのせいか、大学進学を熱望していた。自分の将来は自分で切り開くとして、まずは大学へ進学し、母を喜ばせることができれば、生きる勇気にもつながるだろうと思っていた。この年の12月、私は某大学の授業料が免除になる給費生試験を受け、翌4月から大学生になった。 母はリハビリが功を奏し、体を少しずつ動かせるようにはなったが、その頃大変だったのは排泄だった。夜はベッドで済ませるため、その度に私を起こす必要がある。しかし失語症で声が思うように発せられないから、私も目が覚めないことがあった。そこで考えたのは、母の左手首(麻痺していない方)と私の右手首を軽く結んで寝るということ。母が排泄したくなったら、左手を動かせば私は目を覚ますという仕組みで、夜中に大きな声を出さなくて済む。寝る前に何回か練習して、いざ睡眠へ。これはうまくいった。おかげでシーツを汚すこと回数が激減した。 介護はする方もされる側もストレスを溜めてはいけない。お互い(ここが大事)が楽になると思うことは試し、うまくいけば採用する。この考えは、介護歴37年にして今も変わらない。 私の高校時代が終わりに近づいた初秋、母は一大転機を迎える。リハビリ専門の温泉病院へ転院するが決まったのだ。しかもそこは完全看護で、私はもうそばにはいないのだ。母は転院が決まってから、毎日泣くようになった。(続く) ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
気が付けば朗朗介護(3) -「生かしてあげたい」先生の言葉は勇気と希望に-
付添い生活を始めてから2か月、日差しはすでに夏だった。 病院暮らしは不便極まりないものだったが、一番の苦痛は蒸し暑い日に風呂に入れないこと。母は三食入浴付きだが、付添人の私にはそんなことはない。かといって家に帰るには、日に何本もないローカル線に乗り、駅から歩いて軽く2時間はかかる。ただ風呂に入るだけで往復4時間は気が重かった。 そんなある日のこと、母のリハビリを待つ間、M先生と雑談していたら、「風呂なら我が家で入ればいいじゃないか。ここからなら歩いて10分だよ」と言ってくれたのだ。私はM先生の好意に甘えることにし、週に3~4度はお宅にお邪魔するようになった。風呂はもちろんだが、先生の奥さんが用意してくれる夕食がとてもうれしかった。私はそういう家庭の暖かさから遠ざかって暮らしていたので、普通の家庭の食卓が心地よかった。そしてなにより、M先生と奥さんのやさしさが心に沁みたのだった。 「お母さんは若いから、なんとしても生かしてあげたいんだよ」M先生はいつもそう言ってくれた。その言葉は、先が見えない私に大きな勇気と希望を与えてくれた。 「1日も早くリハビリを開始することが大事」だと、まだ意識も回復していない母をリハビリ室に通わせたのも、M先生のそんな思いからだったのだ。 母は自力で立ち上がれるようになり、リハビリを開始して3週間ほど経った頃には、わずかな距離だが杖をついて歩けるまでに回復した。 その後、M先生は東北の有名な温泉地にある「温泉リハビリテーション病院」への転院を進めてくれた。そこは身体機能回復訓練だけでなく、日常生活の中で自立する訓練ができる専門病院で、入院希望待ちがかなりいると聞いていたが、先生の尽力もあり、秋には転院することもできた。 母が30年以上生きていられるのも、この時にM先生と巡りあったからだと思う。まさに一期一会だ。私は今も感謝の気持ちを忘れない。 こうして少しずつ動けるようになった母の次なる課題は、言葉だった。失語症は、主に脳出血などの脳血管障害によって脳の言語機能の中枢が損傷されることにより、人が一旦獲得した、「聞く」「話す」といった音声に関わる機能、「読む」「書く」といった文字に関わる機能言語機能が障害された状態で、高次脳機能障害のひとつだ。ある時、病室の窓から鳥を見て「カラス」と母が言う。しかしそれは「すずめ」だ。すずめだとわかっていても、それがさっと言えず、口から発する言葉はカラスになってしまうのだ。 そこで私は画用紙にあ、い、う・・と五十音の表を書いて、夜になると二人で言葉の練習をはじめた。「か」の字を指さして、これは何と読む?と聞く。「か」と言が出るように練習する。次は「ら」、次は「す」と。夕食が終わって寝るまでの間、毎晩その表でいろんな言葉の練習をした。しかし不思議なことに、子供の名前だけは自然に出る。つまり私の名前だけはきちんと呼べるのだった。 ある朝、母の朝食の片づけをしていた時、なにげなく病室の窓を見たら、通学する学生たちが見えた。そういえば学校に行ったのは中間試験の2日だけで、あれから1ヶ月以上は経っていた。その時、ふと自分の将来に不安を感じた。「これから僕はどうなるんだろう・・・」と。(続く) ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
気が付けば 朗朗介護!(2) -生きる勇気と希望を与えてくれた出会い-
介護付き有料老人ホームで起きた3名転落死、そして次々と明らかになる虐待や窃盗事件。さらには系列の施設でも同様の事件が起きていたという・・。いつもながらこの手の事件には心が痛み、怒りがこみ上げる。家族が撮影した虐待の様子がテレビで放映されていたが、世間から遮断された施設の中で、人としての尊厳を無視され、苦悩を訴える相手さえいない被害者の思いはいかばかりか。 「介護職の給与水準が低いから人材が集まらない」とよく聞くが、「水をください」と懇願する老婦人に、聞くに堪えない暴言を吐いている介護職員に必要なのは道徳観である。そして、こういう人間を雇用した施設は、厳罰に処分されなければならない。 今回は、家族がこっそり病室にビデオカメラを設置して監視したから露見したが、そこまでしないとわからないというのは本当に恐ろしいことである。本来は施設の運営者が全室にビデオカメラを設置し、職員による虐待はないか、入居者の体調に変化ないかを一日中確認し、入居者が安心して暮らせているかどうかを確かめるぐらいの配慮があってもよいのだ。施設に対し認可する自治体には、早急な対応を求めたい。 さて、前回の続き。母が薄目を開いたのは、開頭手術から3週間経ってのことだった。祈る気持ちで病室に寝泊まりしていたので、母の目が開いた時は「奇跡が起きた!」とうれし涙があふれた。 後遺症で、母は右半身が麻痺し動かず、さらに失語症で言葉が全く出なかった。 翌日から介護、というより看護の生活が始まった。シーツの交換や排泄物の処理、寝間着の交換など日常的なことから、粉薬を水に溶かして鼻から胃につながっているチューブに流し込んだり、床ずれができないように一定時間ごとに体を傾けたり、かなり忙しかった。 目が開いてからは個室に移ったのだが、ある日のこと、ドアが細く開き、誰かがこちらを覗いていることに気付いた。そして覗きは毎日のように続いた。大部屋に移ってから聞いたのだが、高校生の息子が一生懸命母親の看病をしている、というのが病棟で評判になり、(たぶん話が大きくなり)感動話となり、覗きにくる人が続出したのだとか。当の本人はなんとも思ってなかったので、おかしくて笑ってしまった。 意識が戻ってほんの数日後、病室にリハビリ科のM先生が訪ねてきて、母の体の様子を確認すると、「明日からリハビリを開始しましょう」と言う。まだ視点も定まらず、一人でご飯も食べることができないのに何を言いだすのかと思い「リハビリなんて、まだ早くないのですか?」ときつい口調で言い返してしまった。先生は笑いながら「早く始めたほうが患者さんのため。明日の午前中に迎えに来るから」と病室を出て行った。 翌日から母はリハビリを開始した。右半身が麻痺しているため、1人でもちろん立つことができない。しかし先生はおかまいなしにリハビリを続ける。苦痛で悲鳴を上げる母の姿を直視できなかった。 しかしこのM先生との出会いが、母と私に生きる勇気と希望を与えてくれることになるのだ。(続く) ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
気が付けば 朗朗介護!(1)-「老老介護」ではなく、朗らな介護で生きるために-
厚生労働省がまとめた2013年の国民生活基礎調査によると、介護が必要な65歳以上の高齢者がいる世帯のうち、介護する人も65歳以上である「老老介護」の世帯の割合が51.2%に達したという。 この報道、私にとって他人ごとではない。というのも、脳溢血の後遺症で半身不随、失語症になった母と、かれこれ32年も暮らしているからである。 65歳までまだ11年あるものの、未来予想図はズバリ「気が付けば老老介護」。65歳の息子が85歳の母を車いすに乗せ、スーパーマーケットで買い物をしている・・・。そんな今と変わらない日常生活を、11年後もきっと送っているに違いない。体は言うことを聞かないが、自由で楽天的に生きる母は年々元気になっている気がするのだ。 「介護は楽しそう」なんて思う人はいない。暗くて、つらくて、重い、そんなイメージ。受ける側もする側にも苦悩は尽きないし。する側の些細な言動や行動が受ける側の情緒を不安定にさせてしまうこともしばしば。私自身、なんであんなことを言ったのか、どうしてもう少しやさしくできなかったのか、と自己嫌悪につぶされそうになったことは数えきれない。特に2~30代の頃は何度も経験した。40代になってから「母のために何でもしなければ」という気負いが薄れてきて、気持ちがスーと楽になり、50代の今では、お互いの人生の最後をどう迎えようか、と笑いながら語り合えるようになった。 私の11年後は「老老介護」ではなく、朗朗介護でいきたい。どうせ母の介護しなければならない人生なら、私も母も朗らかに生きることが一番だと思うのだ。 話しは32年前に遡る。 母が脳溢血で倒れたのは、私が高校3年になったばかりの5月。朝食の支度をしていると突然うめき声を発し、意識が薄れていった。その夜、運ばれた病院で医者から「今夜が峠、会わせたい人がいれば連絡を・・・」と、ドラマで聞いたようなセリフを言われ、絶望のどん底に落とされた。母は38歳。大きなイビキを響かせ、深い眠りについていた。 この日から私の介護人生は始まった。 私は病院に泊まり込み、母の世話をすることになった。今では考えられないことだが、32年前はこのような重病の入院患者は、身内または雇った看護人が必ず寝泊まりし、看護にあたっていたのだ。そして、高校3年の男にはまだきつい試練が次々と襲ってくることになる。 母が隣町の総合病院で開頭手術したのは、救急車で運ばれた日から1週間後だった。(続く)   ==================== 筆者:渋柿 昭和53年、母38歳で脳溢血。一命をとりとめたものの右半身麻痺、失語症に。 私は17歳から介護生活を開始。38年が過ぎた今も、在宅介護が続いている。 平成28年、母76歳、息子の私55歳。老々介護が間もなく訪れる。 ==================== [写:hu album @fliker]…
富山県・春の風物詩・ホタルイカ
富山湾
富山湾は大陸棚がない。そのためか春に大量のホタルイカが押し寄せる。すべてメス、産卵しに来るのだ。ホタルイカの産卵の水深は、月に影響を受けていると言われている、おそらく月の光が届かない水深で産卵するのだろう。半月の時は、満月のときの水深の半分のところで産卵しているのかもしれない。新月の時、産卵は水深0メートルの岸でおこなわれる。月の光から新月の日に、いわゆる「ホタルイカの身投げ」がおこなわれると考えられます。2~5月の新月の日に富山県民はホタルイカを待っている。 ヘッドライトと専用の玉網を数本、ウェーダーであったり、スパイクブーツなどを用意。深夜、ホタルイカが来たら、玉網ですくうの。砂浜に打ちあがったイカは、砂を噛んでしまうので食べれないが、良い釣り餌になる。 最近は、車の光で砂浜を照らしたり、漁港内で発電機を用いた灯光器を使用するので、漁業関係者のクレームがり、国分浜は出入り禁止。新湊の某漁港ではは、罰金30万となる。最近は石川県、岐阜県、長野県などの近県からも来るので、少々人が多すぎるきらいがある。 地元の人は知っているが。ホタルイカが大量に押し寄せたときは、暗闇の海で適当に玉網を動かすと、玉網の中にホタルイカが入る、すると玉網が青く光るのだ。この青色の光を楽しみにしているの。優雅にホタルイカの発する光を見届けたいためむやみにライトをあてるのは禁物なのだ。 地元の人は毎年、来る珍客を楽しみに生きている。…
いわき市の アクアマリンふくしま
いわき市
【進化の過程が分かる】 「環境水族館」を名乗るこの水族館の特徴は、魚を展示するだけでなく食育や進化の過程をわかりやすく紹介している点だ。館内に入って、すぐに目に飛び込むのが化石と古代生物のオブジェ。そばにはオウムガイやハイギョなど、進化から取り残された生き物が展示されている。 【命の大切さを感じる】 また、シーラカンスの研究も盛んで、泳いでいる貴重な映像だけでなく、貴重な標本も展示しています。「魚などの魚介類は、食べ物である前に生き物である」というコンセプトのもと、食卓から販売店、市場から漁、そして海に続くアプローチをとおして、命や環境の大切さを発信するというコンセプトだ。 【レストランのメニューは魚介が中心】 レストランのメニューは魚介が中心、敷地内の釣り堀で釣った魚を調理してくれます。また、水槽の前に寿司屋が常設され、泳ぐ魚を見ながらお寿司を食べることができる。 【バックヤードツアーが無料】 随時行われるバックヤードツアーは、参加料が無料だ。チョウザメの水槽を見下ろしたり、魚運搬方法の説明を聞いたり、ろ過装置を見たり、ホルマリン保存された生物を見たり。ボランティアガイドさんの説明を聞きながら、30分間も水族館の裏側を見ることができる。外には巨大なタッチプールがあり、カニやヤドカリなど、様々な生き物と触れ合うことができるだけでなく、本物の浜のような大きな浅瀬では、水の中で遊ぶことも可能だ。 他にもキッズプログラムとして、魚を使った料理体験、夏の磯観察、親子で漁業体験宿泊ツアーや、縄文キッズ宿泊ナイトなどの体験企画も豊富だ。夏休みのレジャーや課題の題材などで利用してみてはいかがだろうか。 住所:福島県いわき市小名浜字辰巳町50 電話:0246-73-2525 FAX:0246-73-2526 入館料:一般1,800円 小~高校生900円 開館時間:3月21日~11月30日9:00~17:30 12月1日~3月20日9:00~17:00 [写:寅次郎@fliker]…
葛西臨海水族園をご紹介
江戸川区
夏休みに向け葛西臨海水族園のおすすめポイントをご紹介しよう。 1.大洋の航海者大きなドーナツ型の水槽 マグロが回遊しているこちらの水槽、では、クロマグロ、キハダ、カツオ、コシナガなどを展示している。2階にも水槽があるが、こちらではサメ類、エイ類、マイワシが展示されている。マグロもサメも大きいので、間近で泳ぐ姿やマイワシの群泳は迫力がある。 マグロ、イワシなど、普段食べている魚が泳いでいるというのは、なかなか見られないシーンで、「これがいつも食べてるイワシなんだよ」、とかお子さんに教えるのもいいかもしれない。「魚はスーパーにあるもの」と思っている子供もいるようだが、泳いでいるところを見れば、海から採っていることが分かるに違いない。 2.ペンギンのエリア 長い時間を過ごす。広めの飼育エリアで、泳ぐペンギンの姿がよく見えるように工夫されている。フンボルトペンギン、イワトビペンギン、オウサマペンギン、フェアリーペンギンの4種が飼育されている。 3.渚の生物渚を再現して、生き物を展示しているエリア アカエイ、ネコザメ、マダコ、アメフラシなどがいる。タッチングプールでは、ヒトデ、ウニに触ることができる。お子さんが喜んで、渚や海に興味を持つかもしれない。 水族館の帰りは公園や観覧車で海を眺めて、あそこにはいろいろな魚がいるんだろうな、どんな魚がいるんだろうな、などと想像するのも面白いかもしれない。…